君が笑うための道
@ watatyo
ザァザァと雨が降る。
雫に打たれて体は濡れる。でももう冷たいのかどうかすら分からなかった。
何も感じない私は今、生きているのだろうか?
全て終わった。
これで横濱は守られた。
荒れ果てた大地の上、私はその事実を噛み締める。この街を狙う最大の脅威だった魔人。そして天人五衰。彼らとの戦いは長く続き、最後には激しい戦闘となりながら何とか打ち倒すことができた。
明日からはまた変わらない一日が動き出す筈。
この街は守られた。
これで私は……、善い人になれたのだ。
ふっと体から力が抜けていく。茫然と周りを見渡す。怪我を負いながらもみなここにいる。生きていた。私も生きてここに立っている。だとしたら私はこれから何をして生きていけばいいのだろう。
善い人になれ。
それはかつて私が今となってはたった一人の友に言われた言葉だ。
その方が幾分か素敵だ。そう死んだ友が残した。私はその言葉を信じてマフィアを抜け、探偵社に入った。善い人になろうとしてきた。それは私には酷く難しいことだった。探偵社で善い人たちに囲まれて過ごせば過ごすほど、その事はより鮮明になって私に圧しかかった。
私は善い人になるには些か汚れすぎていた。
その上善い人である彼らとは考え方が違いすぎていた。
善い人になろうと足掻けば足掻くほど善い人から遠のいていく気すらした。
どうしたらいいのか分からず、次第に私はその言葉を呪いのように思うようになっていた。それでも友の残してくれた大切な言葉。胸に抱いて必死に足掻いた。その中で私は思ったのだ。この横濱を彼の愛したこの街を、そしてこの街に住む人々を守ることができたなら善い人になったと云えるのではないかと。この街を魔人が狙っていることには気付いていた。その手から守り通すことが出来たのなら……。
それから私は奴がやってくる日に備え様々な布石を打っておくことに尽力した。
使えそうな人材はさりげなく探偵社やマフィア、もしくは特務科に入るよう仕向け確保させ、それぞれの組織と繋ぎを作っておいた。もう許すことのできない相手とも手を組んだ
すべてはこの街を魔人の手から守るため。何度も自殺未遂を繰り返しながらその日が来るまでは、善い人になるまではと後一歩の所で踏み留まった。そうでなければ私は友にすら会えないのだ。だから必死になって魔人を倒すために生き続けた。
そして……この街は守られた。私が弄してきた策では後一歩足りなかったが、足りない分は他の皆が補ってくれて何とか守り通す事が出来た。私は善い人になれたのだ。
その事実 を噛み締めた後、ならばと次の疑問が巡った。
私はこれからどうしていけばいい? 如何していけば善い人のままあり続けることが出来る?
湧き上がったその問いに私は茫然と立ち竦んだ。やっとの思いで私はここまで来たと云うのに待っていたのは巨大な迷路だった。出口のない暗闇が大きく口を開いて私を待ち受けていた。足を竦ませた私は飲み込まれながらも笑みを作る。
その場にはまだ皆がいた。長かった戦いを終えて疲れ切った体をゆっくりとやってくる歓喜に震わせる皆がこんな状況でへまして余計な心配をかけさせるわけにはいかない。何とか明るい声を上げた。
「……ざい!! 太宰!! 聞いているのかお前は!!」
激しい怒り声が耳を打つ。その声が暗闇に沈んでいた私をハッと我に返した。急いで笑みが崩れていないか確認する。なんとかまだ貼り付けられたままですんでいた。それを維持するため気づかれないように表情筋を動かす。
「ごめんごめん。聞いてなかったーー」
「この唐変木が! 会議をなんだと思っているんだ」
「ごめんってばーー」
明るい声を作ってふざける。国木田君の怒鳴り声に混じり周りからは呆れたようなため息が落ちた。それに良かったと胸を撫で下ろす。誰も不自然には思っていない。続行される会議に今度こそ耳を傾ける。
あれから二週間たった。例のごとく燃え付き症候群に陥ったりもしたが、前と何一つ変わらない日常が探偵社に帰ってきている。みんなもう元通りの日々を過ごしていて。
なのに私だけが元に戻れないでいる。どう過ごしていけばいいのか分からない。前と変わらない私を装いながら、ふっとした瞬間に大きな穴に飲み込まれ現実の中から消えてしまう。やっとのことで善い人になれたのに、いや、なれてしまったから日々を生きていけない。
善い人になろうと足掻いていた頃、私はそれがすべてだと思っていた。善い人になれたら全て終わるのだと。だけどそうじゃなかったと今になって気づいた。善い人になれたら次は善い人で居続けなければならなかった。
かつて黒が見た目だけでも白に変わったように、人のあり方は移ろい変わって行くもの。
黒から白には困難だが、白から黒には容易く変わる。
幾ら善い人になれても一歩間違えればその位置から容易に崩れ落ちていくのだ。私は辛うじてその上にたったに過ぎないのだと、あの日に気づいた。
これからはあり続けるために生きていかねばならないのだ。
でもその為に私はどうしたらいい? 私のような人間失格者はただ生きるだけでは善い人であり続けることが出来ない。何かをしなければ。でも何をすればいい。もう魔人のような敵もいない。小悪党なら幾らでもいるが彼らごときから町を守ったところでそれは何にもならないだろう。私が居なくたって誰でもできることだ。ならどうしたら……。
このままでは善い人ではなくなってしまう。折角ここまで来れたのに。幾ら考えても答えは出ない。考え続けるほど遠退いていく。いっそもう死んでもいいのではないかと何度も自殺未遂を繰り返すが今だ死ねぬ。
私は取り残されてしまった。
生きていく方法を見つけなければ日常に帰ることも出来ない。
「大丈夫ですか?」
顔色悪いですよ太宰さん。心配をするように覗き込んできた敦君にひゅっと息を飲んでしまった。幸いなことに気付かれるほどのものではなかったが、やってしまった事に脳が警鐘を鳴らす。なんとか笑みを作って大丈夫だよと笑う。最近好みのお酒とつまみを見つけてね、酒盛り三昧なのだよ。昨日も夜遅くまで飲んで朝は二日酔いで起きられなかったぐらいさ。でもと続けられたのにあらかじめ用意していた言い訳を揚々と語る。敦君もどうだい? 何て付け加えればえ、と一歩引く敦君。近くにいた国木田君からは未成年に酒を飲まそうとするなと怒鳴られる。何時もなら来るはずの衝撃が来ないことに私は自分の失態を悟る。
少し言い訳をするタイミングが早すぎたか。不自然さを与えてしまったようだ。訝しげな視線を受けながら私はさもだるそうに私は机の上に突っ伏す。
「あーあー、やる気がでなーーいーー。くっにきだくーんー、やってーー」
「自分でやれ!!」
「えーーいいじゃん。私と君のなかじゃないかーー。やってくれないと君のあーんなことやこーんなこと言い触らしちゃうからね」
「なんの事だ何の!!」
「そりゃあ、もう」
声のトーンをあげて楽しげにからかう。国木田君が声を荒らげてしまうような、怒り出してしまうような話を口にして場を有耶無耶にしてしまう。
探偵社内で怒鳴り声が響いた。
自分でその状況を作り上げながら頭が痛くなって困った。
目元には濃いを通り越しどす黒い色をした隈。ごっそりと痩せこけた頬。うちに血が通っているのが信じられないほど青白い肌。髪も艶を失い落武者のよう。
鏡に写るありさまに私は自分の事であるのに酷いなと他人事のように呟いた。数日後に栄養失調の死体が見つかったとなってもああ、やはりと思ってしまいそうだ。もっともその時には私はいないわけだが。
探偵社のみんなに心配をかけないように化粧で隈や肌の色を隠していく。痩けた頬は口の中に入れ物をすることで誤魔化す。髪には少量の油を塗りいつも通りの私を作る。完璧な仕上がりに何故だか笑みが込み上げる。
ここ最近眠れないでいる。元々睡眠時間が多い方ではなかったが、人として必要最低限は眠っていた。それすらも今は出来なくなっている。眠ろうとしてもこれからどうしたらいいのか。その疑問が沸き上がって眠気を阻害してしまうのだ。疑問は日中すらも襲い呑み込もうとし続ける。それに対抗しようと、最近では横濱にある犯罪組織を根こそぎ洗い出して潰し回っている。作戦を練り実行している間だけは襲い来る暗闇も少しは薄くなるのだ。追い出すために次々と作戦を打ち立てていく。実行するのも私。誰にも言うことが出来ないので全て私一人でこなす。思考からは多少なりとも解放される。だけど、そのために絶えず脳を使い続けているので余計に眠れなくなった。
磨耗して日中みんなの前で私を演じる事さえも難しくなり始めた。無理が生じはじめている。
私はいま何処にいて目の前にいるのが誰なのか理解できなくなる。誰かに声をかけられて初めて自分の状況を認識する。ヤバイと思うのにどう改善していいのか分からない。
ざぁざぁと雨が降る。
冷たい雨は痛く重い。水に濡れる体は徐々に感覚をなくしていく。このままこの雨に流され溶けて消えてしまえばいいのにと愚かなことを思う。どうやっても私は変われないのだと思った。善い人になれたと思ったのにそれすらも間違いだったと分かってしまう。私は私だった。
人を損ない続けるだけの何か。
敦君の姿が思い浮かぶ。血みどろになりながら大丈夫ですからと気丈に声をあげた彼の姿が。
武装探偵社ともなれば怪我事態はいつもの事だ。身の危険に迫られることだって何時でもある。だけど今日のは違った。今日敦君が怪我をしたのは私のせいだ。私が読み間違えってしまった。きっと普段の状態でなら読み間違えることはなかっただろう。それなのに間違えてしまったのは私が普段とは違ったから。重ね続ける無茶のせいで正常な判断ができなくなっていた。そのせいでみんなを危険な目に巻き込んだ。敦君が途中で気づいてくれたお陰で作戦へ参加していた他のみんなが怪我をすることはなかった。だが、みんなを庇った敦君が重傷を追ってしまった。幾ら与謝野女医の異能で治るとはいえ痛くないわけではない。酷いことをしてしまった。
私が自分のことばかりに気をとられてしまっていたせいで……。
それなのに敦君な私に大丈夫ですから何て声を掛けてきて、他のみんなも失敗をなじればいいのに今日はどうしたんだ。何かあったんですか。体調が悪かったなら言ってください。休んでいても大丈夫だったなんて心配だけをして来る。
それが余計につらかった。
つくづく私とみんなは違うと思った。私にはそんなこと出来ない。失敗は失敗として詰るだろう。優しくなどなれない。
みんなに謝って、それからみんなから逃げた。死にたいと思って川に身を投げたのに、また死ねずに助かる。呆然としていれば雨が降り始めた。ぽつぽつと降るだけだったのが次第に雨足を強くなっていく。バケツをひっくり返したかのように降り注ぐ雨。肌に痛いそれをうけながら立ち竦んでいればどんどん川の流れは強くなっていて。
今なら死ねるだろうか。
この川と雨で血のように流され消えてなくなったりしないだろうか。その思い付きに動かされて足を一歩川に……。
「 」
雨音に紛れ人の声が聞こえた。飛び込もうとしていた動きが止まる。呼ばれたのは自分の名だったように思う。振り返らずにこのまま、そんな思いを片隅で考えながらも振り返ってしまう。声のした方を見た。
雨粒に遮られる視界の中に人影が一つ。えっと目が見開くのを感じた。想像にもしなかった人で頭のなかが真っ白になる。
「社長」
思わず呟いてしまったのを自分の声が聞こえたことで気付いた。どうしてここにと思ううちに人影が近付いてきて、その姿がハッキリと、見えるようになる。何かの間違いかもと思っていたのにそうでないことが分かってますます混乱する。雨に遮られながらも浅葱色の着物が鮮やかに移った。
「太宰」
再び聞こえた声は間違うことなく私の名を呼んでいた……。まっすぐ見つめてくる瞳の色がわかるようになり、私は目をそらしてしまった。濡れそぼった裾から雨に混じり雫がぼたぼたと落ちていく。遠退いていた感覚が戻ってきて肌に刺さる雨粒が痛い。冷たいと感じることがないのに末期だなと他人事のように思った。笑わなければと口角をあげる。目元を細めればいつもの笑顔を作れた。こんなところでどうしたんですか。当たり障りのない言葉でそう云おうとして、下げていた視線をあげれば思いもしなかった近さに社長がいた。
社長の姿が雨に濡れている。何でと思ってから肌を突き刺すような痛みが病んでいた事に気付く。周りから雨が聞こえていた。目線をあげれば社長の指していた傘が目にはいる。濡れますよと一拍遅れて呟く。
「ああ、だから帰るぞ」
捕まれた手。何をするにも億劫でただ立ち尽くしていればその手に傘の柄を押し付けられる。触れるものをつい緩く握れば離れる手。踵を返す社長は雨に濡れていて、そのなかで静かに歩いていく。
慌てて名を呼んだ。立ち止まり振り替える社長に言葉を探してから濡れますよと口にした。返ってきたのはそうだなと云う声一つ。傘を差し出すのに風邪はひきたくないので急いでくれと社長は行ってしまう。
社長が足早に歩いていく。だけど途中で立ち止まって私を見つめた。
●
事務所につきコートを脱げば、後ろからはああと云う声が上がった。横目で見やればぼんやりとした顔をしながら、その目が歪んでいる。何か云いたそうなのを無視して奥に向かえば、入り口で止まってしまう男。そのままにして医務室に向かい、数枚のタオルを拝借した。その一枚で濡れた髪を乱暴に拭く。足早に戻った。入り口の前で立ち止まっているだろう子供の元に向かう。
その姿を見たとき大きな衝撃に見回れた。すぐに覆い隠され、何時もの喰えない笑顔になったが、しばらくその姿が目に焼き付き離れなかった。
行き場のない子供の顔をしていた。広い世界にたった一人の取り残されて迷い子になってしまった子供。何処に行けばいいのかも分からずに一人不安で涙を流す。
泣いてこそいないもののそんな顔だった。
今がどんな状況だったのかすら忘れてその顔に見入った。もう写されてはいないのに、隠れてしまったそれを見続ける。
誰かに声をかけられて我に返ったが、それが誰だったのかも後になると覚えていなかった。その顔を見たのはその時たった一度だけ。それ以外では見ることがない。だけどそれとは違うものなら幾度か見たことがあった。あの日から少しずつ太宰は可笑しくなっていて、ふっとし瞬間に真っ黒な闇を覗かせる。
今まで笑みの中に覆い隠して決して見せることのなかったものを見せる。だけどそれはいつもすぐにまた隠される。分厚い笑みの皮で。
私だけでなく他の者たちも太宰の異変に気づき初めてあれを気にかけていたが、太宰は気づく様子がなかった。ヘラヘラと笑みを浮かべていつも通りを装い続ける。何かあったのかと此方が心配してもあっさりとかわされ、別の話題に移される。
入社当初から人との間に分厚い壁を立てていた男であったが、それがここにきてなお一層のこと深い壁となった。
どうにもできず見つめる中で日に日に太宰は崩れていた。それでも笑みを浮かべ続ける。
無理矢理立ち入ってしまえば壊してしまいそうで何も出来ずにいた。だけどそろそろ踏み込まなければならない所まできてしまったのではないか。壊れてしまうのだとしても踏み込んで、太宰の内側を覗きこんで、何か言葉をかけてやらねばならないのではないか。でもなんとかければいい。一歩間違えばもう二度と治すこともできなくなってしまう。正解を選べる自信がなかった。それでもこのままにしておくこともできない。一体どうすれば。
そうずっと悩んでいた。
悩んでいたときに雨の中に佇む太宰を見つけた。
強い雨だった。まるで叩きつけるように落ちる。傘の上ではドドドと激しい音をたてていた。破けてしまわないか不安になるような凄い音だ。そんな雨の中で太宰は傘も差さずに増水してぎりぎりまで水位の上がっている川の側に立ち竦んでいる。今にも川の中へ消えていきそうな姿だった。
私はすぐさま川辺に降りて太宰の名を呼ぶ。雨に掻き消されて聞こえなかったのではと不安に思ったが、聞こえていたようで川に向かっていた足が途中で止まった。
川を見つめる目がしばらくして私の方を見る。雨に隠されてその表情は見えない。だけど酷く苦しんでいるように思えた
「 ……う」
雨に掻き消されながらも声が届いた。小さな声は普段の彼からは想像も出来ないほどに揺れていて。私は彼に近付いていく。
太宰の姿がよく見えるようになってくる。そうなって私は思わず眉を顰めてしまった。
今日太宰が仕事で失敗をしていたことは聞いていた。不真面目な勤務態度ながらも何だかんだで完璧にこなす太宰には珍しい事態。どうやら体調が優れなかったららしいとは聞いていた。だけど太宰の姿を見るとこれのどこがらしいのだと怒りを感じてしまう。目の前にいる太宰は頬も痩せこけ目元には濃い隈ができている。顔色は最悪だった。およそ生きているとは思えないほどの姿。こんなのでまともに仕事がこなせるわけがないだろうと思い、何故誰も休ませなかったのだと心の中で他のみんなに叱責をいれた。だが、ふっと気付く。一日やそこらでこんなにも変わるものかと。
今日は私はまだ太宰には会っていなかったが、昨日は確かにその姿を見た。何時ものように過ごす太宰は普段とまるで顔色が変わらず、隈もなかったはずだ。大きく痩せこけている頬も普通で具合が悪いようには見えなかった。
それが偽りだったのだと今の姿を見て分かった。
一日でこんなに悪くなったと考えるよりも、ずっと前から体調を崩していたのを隠していたのだと考えた方が、ずっと理にかなっている。
気づくと同時に怒りと悲しさが押し寄せてきた。
何故こうなっても太宰は誰にも助けを求めないのか。こんな姿でいつも通りを装おうとするのか。またどうしてこんな姿にまでなっている太宰に気付いてあげられなかったのか。胸のうち渦巻くそれらを押し込めて彼の名前を呼ぶ。
太宰は私を見ているのにまるで見ていないような目をしていた。どこかぼんやりとした表情。焦点の合わない目と目が合えば不意に反らされてしまう。俯いた瞳は今もぼんやりとしている。何時もならすぐにでも笑って取り繕うはずだが、今日はそうしてこなかった。
その姿に今がチャンスなのではないかと思う。
太宰の心のうちに触れるチャンス。
だけども掛ける言葉を見つけることが出来ない。何かを目の前の存在に云わねばと思う。それなのに頭のなかが真っ白になって言葉が出ていくことはない。何をすればいいのか分からずにただ私は雨に打たれ続ける太宰に傘を差し出した。太宰の周りの雨がなくなり、私の元に降ってくるようになる。突き刺すような雨は痛く、瞬く間に全身を濡らしてしまう。
冷たい雨に打たれて体が冷えていくが、今はそんなことどうでも良かった。目の前にいる太宰がこれ以上濡れないのならそれで良かった。
ぼんやりとした太宰は自らに当たる雨粒がなくなったことにすら気づいたないようだった。しばらくして太宰の口角が持ち上がる。笑おうとしているのだと分かった。笑うなと云いたいのに声がでない。歪に笑いながら私を見た太宰は数秒遅れて目を瞬かせる。
緩慢な動きで上を見上げてそれから濡れますよとやや遅く呟く。いつになく力ない動き。
「ああ、帰るぞ」
それ以上その体を冷やす前に。言葉をのみ込んで傘を太宰に持たせた。手を掴んでもぼんやりとしたまま。何をされるのか疑う様子もなくされるがままだった。傘の柄を握った太宰の手を離す。雨に濡れたまま帰り道を行く。
社長と慌てた声が私を呼んだ。
振り返れば迷うようにしながらぬれますよともう一度云われる。そうだなと返す。傘を差し出してくるのに身を翻す。
「風邪はひきたくないので急いでくれ」
それだけを云って歩いていく。途中で立ち止まる。振り返りじっと見つめていると立ち竦む太宰がゆっくりと歩き出した。
太宰より前を歩きながら途中で立ち止まっては太宰を待つ。その度に足が止まりそうになっていた太宰は再び歩き出す。
そんな風にして太宰を促しながら探偵社に戻ってきた。
家に帰る途中だったのだが、太宰のいた場所からはこちらの方が近かった。それに私の家となれば太宰はやってこなかっただろう。
みんなが帰り閉まっている探偵社の鍵を開ける。誰もいない探偵社は静かで丁度良かった。
入り口で立ち止まっている太宰にバスタオルを掛ける。それにも彼は動かない。今度こそと思っても言葉はでない。何とかけてやればいいのかが分からない。口下手な自分に嫌悪を覚えてしまいそうだ。
言葉はでなくとも何かをしたくて濡れた太宰に手を伸ばした。
両手で引き寄せればすっぽりと収まる体。私を見つめる目は変わらずぼんやりとしている。
何をすればいいのか分からない。ただしたいと思うままに濡れた蓬髪に触れる。そのまま撫でていくとぼんやりとしていた顔が僅かに動いた。きょとんとした表情をみせて、褪赭色の瞳がゆっくりと歪んでいく。
それは子供の表情だった。あの日私が見た迷い子の顔。自分が何処にいるのかすらも分かっていない子供のもの。
ああ、と震えた息がでそうになった。
太宰を抱き締める腕に力がこもる。
腕の中にいる子供を救ってやりたいと強く思った。
[newpage]
そろそろ皆が帰った頃かと思い社長室からでた。明かり一つない社内は暗く静かだ。誰一人いないようにさえ思えるが、そこにはそれでも一つだけ人影がある。それが誰か声をかけなくとも知っている。そこにいるのは太宰だ。
暗闇のなか一人ぼんやりと座り込んでいる。月に一度か二度あるかないかぐらいの頻度で見るようになった姿。私が来たことが分かっているだろうに太宰は何も言わず座り込み続ける。暗闇のなかでその表情は見えない。私は静かに太宰のもとに近付いた。声を掛けることなくすぐ隣に腰かける。反応はない。魂を何処かに置いてきてしまったかのように動かない。
聞こえてくる息遣いだけが今ここに太宰が存在しているのだと教えてくれる。
数時間暗闇のなか過ごした。その間身動ぎひとつしない太宰の傍で私はずっと太宰を見つめる。かたりと太宰が座っていた椅子が音を立てた。ゆっくりと動き出した太宰は緩慢な動きで立ちあがり私を見つめてくる。いつもにこにことあがっている口角はぴっくりとも動かない。
真っ暗な目が私を見下ろす。何の感情も乗ることのないその姿はまるで無機物のようだった。何処か不気味でぞくりと肌が粟立つ。気付かれないように歯を噛み締め溢れる思いを圧し殺す。太宰の口許が何かを云いたげに動いて何も云わずに閉じる。帰るかと私が口にするとぴくりと肩が跳ねた。立ち上がり差し出した手を暗い瞳が見つめ、苦し気な息を吐き出した。垂れ下がった手。指先が小さく動いたが持ち上がることはない。その手を掴む。
手はひんやりとした冷たい。包み込むように握りしめ、ゆっくりと歩き出す。ぴんと腕が伸びる。つっかえたような感触の後、重たい足が歩き出した。
「今日は家に帰るか」
問い掛ければ立ち止まりそうになった太宰が浅く首を振った。
○
私は何をしているのだろうと考えながら目の前の相手を見つめる。気づいた相手がどうした。美味しくないかと聞いてくるのにただ首を振った。止まっていた箸を動かして口のなかに放り込む。適当に噛んでから飲み込んだ。味なんてものは正直分からない気付いたときには何かを美味しいと感じることがなくなっていた。どれを食べても同じようなものでまるで砂を食べているかのような気分になる。だからと云うわけでもないだろうが食に関する興味は極端に薄い。普段ですら一日一食食べたら良い方だった。誰かと一緒に食べるのは苦手。味も分からないのににこにこ笑って美味しいなんて口にしなくちゃいけないのが面倒だから。息苦しく時々死にたくなる。
今はそう云った気持ちはわかない。何も考えずもくもくと口にいれていくことができる。笑うことを止めてしまっているからだろう。目の前の相手も笑わない私を気にしてはいない。それが気味悪くだけども居心地はとても良かった。
笑わなくても良いのだと思うとそれだけでホッとした気持ちになる。笑うことにさえ疲れていたのだ。気付いた時、己を愚かに思った。笑わなければと目の前にいる相手の前でも無理矢理に笑おうとしたこともあったが、どれだけ頑張っても笑うことができずに止めてしまった。笑わなくて良いと云われたならそれでいいやと諦めた。
今も能面のような顔をして箸を動かし口にいれていく。会話をすることもなかった。膳の中にはまだ半分以上も残っているが食べるのが苦しくなって箸を置く。
「もう終わりか」
問い掛けられたのに今度は頷いた。心配を掛けることがないよう普段であれば強引にでも胃の中に詰め込む。それで後から吐き出したりするのだけど、そう云ったことをするのも止めてしまった。ぼんやりとまだ食べている相手を眺める。何をしているのだろう。幾度目かの問いを自分に問い掛ける。答えが出ずに考えるのをやめた。食べ終わった相手が立ち上がるのに続く。
料金を払う相手を無言で眺める。財布をだしても無駄だと悟っているのでもう何も云わない。差し出された紙袋を受けとる。ずっしりと重いそれを重苦しい気持ちで受け取ってありがとうございますと感情の乗らない声で返した。歩いていく背を追いかける。家は此方ではないでしょう。私はもう大丈夫ですよと云いたいのにそれだって無駄だと分かっているので口を閉ざす。私の寝場所である探偵社の寮に辿り着く。ありがとうございますともう一度礼の言葉をのべる。気にするなと相手が云う。遅くまで付き合ってもらって悪かった。ゆっくりと休めと云われるのに返事はしなかった。階段を登り部屋まで向かう。扉に手をかける。部屋にはいる時ちらりと外を見ればまだ相手はいた。じっと見上げてきている。
ぱたんと扉を閉めた。手の中にある紙袋を見下ろす。中に入っているのは持ち帰り用の料理。冷蔵庫などと云う気の利いたものすらない部屋。それを知っている訳ではないだろうに常温で保存しても大丈夫なものだけ。その辺に放置して敷きっぱなしの布団の上に倒れ込む。明日食べれる気力があれば食べてなければ棄てようと考えながら形だけ眠ろうとする。
あの雨の日から早半年近く経った。相変わらず私はどう生きたらいいのか判らずにさ迷い続けるばかり。一つの進歩もない。ただ変わったことはあって何故か社長と過ごす時間が増えた。雨の日から半月後ぐらいたったある日、入水をし自力に岸に上がった私を社長が迎えに来た。手にはタオルを持っており、それで濡れた髪を拭かれる。呆然と見つめてからへらりと笑おうとした。上手くはできなかったが形だけならば何とか笑えていたと思う。そこに聞こえた笑わなくても良いと云う言葉。
「私の前では無理に笑わなくともいい」
真っ直ぐに見つめてくる社長の目を見つめた。何かに怒っているかのように皺の寄った険しい目元。だが銀灰の目に宿るのは怒りの感情ではなかった。突き刺すように鋭いがその奥から感じ取れるのは温もりであった。それが不思議で問いかけた。
「気味が悪いでしょう」
返事が一瞬なかった。見つめる先でぴくりと震えた瞼。わずかに深くなる目元の皺。その反応にああ、やっぱりと思ったのに一拍後何の話だと口にされた。だってと声が震える。
「笑わなくていい。苦しいのならせめて私の前でぐらいは笑わないでいろ」
告げてくる目は何処までも真っ直ぐに澄んでいて嘘はなかった。本当に分かっていないのだと思い、なら余計と笑わなければと口角をあげ目元を下げようとすると頬がひきつる。ぴくぴくと筋肉が震えるだけで一つの笑みも作れなかった。社長の手が私に触れた。笑うなともう一度声が聞こえる。笑わなくてもいい。笑わないでくれ。言葉が降ってくるのに浮かべようとしていた笑みを消す。髪を拭いていたタオルが頭に被せられる。帰ろうと手を引かれ私は重たい足を動かした。端から見たら変な光景だっただろう。だがその時の私にはとてもありがたかった。人に見せられない顔をしてしまっていたから。
辿り着いたのは誰もいない探偵社でそこで服を着替えさせられた。面倒に思いどうせ後は寮に帰るだけなのですから良いですよと言ったのだが聞き入れてもらえなかった。ほぼ強引に着替えさせられた後、寮に帰るはずが気づけば料亭にいた。
ほぼ流されるまま、手を引かれるのについていてたのでどうしてそうなってしまったのか覚えていない。
困惑しながらも考えるのすら億劫になって出てくるものを口に含んだ。会計は社長が払った。幾らなんでも社長にこれ以上の迷惑をかけるのは、と財布を取り出そうとしたがそのときは川に流されてなくなっていた。社長は気にしなくていいと云ったがそんなわけにはいかないだろう。金額を覚えて後日返そうとしたら、それは受け取ってもらえなかった。
その数日後にようやっと届いた着物に挟んで、菓子おりもつけて渡したのだがすぐに見破られる。着物はあの雨の日にダメにしてしまっただろう着物のお詫びの品だったのに、それすら気にする必要はなかった。そう言われてしまう始末。まあ、それが予想できていたから最初から着物にしたのだけど。なのに礼をと云われてまたも料亭に連れていかれる。今度は抵抗したのだけど良いからと押しきられてしまった。詫びのつもりがまた奢られる。金を払おうとしても払わせてはくれなかった。気にしなくていいとそればかりを口にされる。
モヤモヤしながらも日々を過ごしていたが、耐えきれずにまた入水を繰り返す。何度目かの時にまた社長が迎えに来た。手にはタオル。その時も一度探偵社に連れていかれそこで着替えさせられた後、また夕食を共にしていた。駄目だとは考えて抵抗しようとするのだけど、入水後はどうにも判断が鈍って上手くできなかった。
動くのすら億劫に思ってしまったのが敗因だろう。
その日の後に社長に云われた気にしないでくれの言葉。私がお前と共に食べたいと思ったから誘ったのだ。私の我が儘に付き合ってもらったのだから私が払うのは当然だろう。むしろ払わせてくれ。お前と共に食事ができてとても嬉しかった。そうやって告げられる。嘘であることは分かっていた。能面のような顔をした男と食べて楽しいはずがない。私が気を使うことがないように云ってくれただけ。そう分かりながらも頷いたのは面倒だったから。
後から我に帰って悩んだが、それも面倒になってもういいやと考えるのを止めた。それからも何度か同じことが繰り返された。
どうにかした方がいいのではないかと思いながら入水をすることをやめることができず、社長にたいしても何かを云おうとして云わせてもらえない上、云うこともできなかった。月に一、二度の頻度でその不思議な日は訪れた。
何度目かの日、迎えに来た社長を見て私の口から乱歩さんと言う言葉が漏れた。無意識の言葉だった。社長が首をかしげて乱歩がどうかしたかと云った。ずぶ濡れの髪を拭く手はただひたすらに優しくタオル越しにも暖かさが伝わってきた。その目を見つめて社長が本当に何も分かっていないと気付いて私は細い息を吐き出していた。
乱歩さんから聞いている訳じゃないんだ。思ってそれから意識した。何処か遠くでぼんやりと思っていたことをはっきりと認識した。社長が入水後、迎えに来るときは私がどうしようもなく駄目になって死にたい気持ちが何より強くなってしまった時なのだと。苦しくてもう生きていけないと思った時に現れる。
社長が迎えに来なければきっと私は何処かの時で死んでいただろう。それほどに危うい時やって来る。社長がこなければもしかしたら死ねてたのかと考えながらも恨む沸き上がらなかった。
今の私はこの人に生かされているのだとその思いが胸の底で沸き上がる。
何となく髪を拭く手に頭を擦り寄せる。ふっと驚いたような顔をしながらも社長の大きな手が私の頭を抱き寄せた。暖かいぬくもりに包まれる。ぽんぽんと優しく撫でてくる手。それらを感じながら少しの間目を閉じた。
それから半月ぐらい経った日。私はまた飛び降りたい衝動に駈られた。もう嫌だ。死んでしまいたい。なぜ私なんかが生きているのか。私が生きていることに何の意味があるのか。私が生きて何が救える。善い人でなどあり続けられる筈がない。それならいっそ。胸の奥で轟く言葉たち。みんなの前で笑うのが辛く吐き出してしまいそうだった。
だけどこの日私は川に向かわなかった。
飛び降りたい。死んでしまいたい。思いながらも何故か仕事が終わる最後まで探偵社にいた。そしてみんなが帰っていくのを見つめる。いつも最後まで残り社長に声を掛ける役割の国木田君が早く帰れと云ってくるのに、溜めっていた仕事を片付けたいからなんて信じられない言葉を口にしていた。何もかもが億劫で、なにもしたくないと思いながら、疑う国木田君を帰らせるためにあれやこれやと言葉を重ねていた。
そして社内に一人残る。そうしてまで一人になって私は椅子に腰かけてぼんやりと何処か遠くを見つめた。
見つめながらも景色なんてものは何一つ見えていない。
ただまとまらない思考を繰り返すだけ。考えることすら放棄したい。そう思いながらも溢れる言葉たちは消えてくれず、追いかけては掴まえ一つ一つ纏めながら形にならずにばらけさせていく。そんなことを何度も繰り返していた。
「太宰。どうした」
驚きを含んだ声が鼓膜を打った。聞こえたそれに思考が霧散しハッと我に帰る。社長室にこもりまだ帰っていなかった社長が怪訝そうな顔をして私を見ていた。その姿さえもぼんやりとした目で見つめてしまう。口を閉ざした社長が私のもとに近寄ってきた。何も言わずに少し離れたところに座る。離れてはいるが充分近く息遣いの聞こえる距離。それを見つめながら私はまた何処か遠くに思考を飛ばした。
鬱々とした思考が私を呑み込もうとしてくる。底のない暗闇に囚われて溺れそうになる。それを引き留めたのは聞こえてくる息遣い。すくそばにある気配が私をこの世に押し止めた。
ほぅと息が漏れた。
思考の渦から抜け出して社長を見つめる。何をするでもなくそこにいた社長が視線に気付いて私を見た。
「帰るか」
問い掛けられるのをぼんやりとして聞いた。返事をしなければと思いながらも声は出ず、首を振ることすら出来なかった。じっと社長を見つめた。立ち上がった社長の手が私の手に触れる。
帰ろう。
促されるままに歩いた。探偵社をでて歩きながら時々立ち止まりそうになる。そんなときは社長が軽く手を引いた。それにまた促されて歩き出す。帰ろうと云う話だったのに入水後の時と同じで気づけば料亭に着いていた。注文を頼む社長を見つめながら今、私は社長に生かされたのだと気付いた。少しだけ楽になった呼吸。私の中で暴れ押し潰そうとしていた言葉たちが消えていた。通らなくなっていた食べ物も喉を通りぬけ胃の中へと落ちていく。消化され栄養になるのだろうと思うとこの行為もまた私を生かすための行為なのだと気づく。
生かされていくのに何かから人に変わっていくように思えた。
日常に人として帰ってきた。
その後寮に送られてすぐに横になった。いつもなら横になれば濁流のように押し寄せてくる思考がその日は押し寄せてこなかった。何時もより少し眠れた。
それからはまた同じことを繰り返すように。駄目になったとき一人探偵社に残る。そしたら社長が傍にやってくる。そばにある社長の気配によって沈みそうな思考から後一歩のところで逃げ出せる。笑うことを放棄して考えることすら投げ出すと呼吸が楽にできて、そっと握られる手は私がここにいることを教えてくれる。取られなくなっていた栄養を取り、生きていくために必要なことを思い出していく。
そうすることで私はなんとかこの世界で生きていくことができた。
そうやって社長に生かされることに戸惑いこれでいいのかとも思いながらもそれ以外の方法を探すことは出来なかった。
●
扉の向こう側に消えていた背を見送ってからほぅと息を吐き出した。見送った後ろ姿がまた一段と細くなっているような気がして胸が痛む。ずっしりと重いものが押し寄せてくる。いつもへらへらと笑って、それなりに元気な姿を装いながらも、実際は笑う気力も失いそうなほど疲弊している。太宰が日々重い体を引き摺るようにして過ごしていることを知っている。
もう笑わなくてもいいのだ。苦しいのなら苦しい。声に出して回りに弱音を吐いてもいいのだ。伝えたくなりながらも口を閉ざす。
太宰の心はそれができるほど周りに開けてはいなかった。自分のことすらもそんなことが出来るものとして見ていない。
伝えても伝わらない。伝えることそのものが重荷になる。
だから固く口を閉ざした。それでも一人苦しみ傷付きながらもがく姿を見ていられず、せめて私の前でだけは笑うなと笑わなくてもいいと口にした。それに対して気味が悪いでしょうと返ってきた言葉。
その時は意味が分からなかったけれど、後から考え何を云いたかったのか理解することができた。できてしまった。理解したとき落雷に撃たれるかのごとく激しい痛みが襲い掛かってきた。焼き付くされ、さらにその上から幾重もの刃が突き刺さる。やっと分かった事に何かを言いたくなりながらも押し止めて口を閉ざす。私の前でだけは笑うのをやめるようになったから今はそれでいいのだと言い聞かせた。
太宰のことは注意深く観察していた。社の長として一人だけにあまり気をとられ過ぎるものではない。思いながらも目を離すことが出来なかった。元元ふらふらと何処かへ行ってしまいそうな男ではあったが、今は目を少しでもそらしてしまえばすぐにでも消えて居なくなってしまいそうな危うさがあった。それでも必死に地に足をつけ踏ん張っているから普段は見守るだけに撤する。もう駄目だ。これはやばいと思うときになって太宰を探しに行くように努めた。そう言うとき太宰は大抵川べにいた。入水をしそして助かって苦しそうな顔で川のなかを見つめる。
幽鬼に見間違えてしまいそうなほど生気がなく、今にも川の中に飛び降りて今度こそ帰らぬ人となりそうな姿に声をかける。見つめてくる瞳は心をなくしたかのように暗く光を通さない。そんな目が動くことなくじっと見つめてくる。社長と名を呼ぶ声ものっそりとして重い。濡れた髪を拭くと云う名目で世界から彼を隠すためのタオルを掛けたときにほぅと吐き出される少しの吐息だけが人らしいものだった。
太宰がどんな場所にいようとも必ず探偵社に連れて帰った。そこで少しの時間を過ごし、その後探偵社の寮に送る前に料亭に連れていく。とにかく栄養のあるものを食べさせるようにしていた。
太宰を迎えにいくたび掴む手はいつも冷たく痩けている。日を重ねるに連れて肉が減っていき、今では骨に触れているのではないかと思うほどに固い。骨の感触が手全体から伝わってくる。その手だけでなく他の色んな所をみても痩せすぎているのがわかり、まともに食事を取っていないことは容易に想像ができた。だから少しでも太宰が食べるようにと料亭に連れていく。
だがそれも上手くは行っていない。最初の頃はすべて食べていたのだが、無理に詰め込み後から吐き出していることに気付いた。食べられる分だけ食べたらいいと云ってからは小鉢一杯分ぐらいの量しか食べなくなった。もっと食べてほしいと思うのだけど食べるときの太宰は口許を歪ませ今にも吐き出してしまいそうな痛々しい姿をしているのに食べさせようとするのは止めてしまった。
太宰に食べさせるには食への考え方そのものを改めさせなければならないのだろう。だから兎に角食べられる分だけを与えられるときに食べさせることで持ちこたえさせることにした。食への関心を持たせられるような段階ではまだなかった。
太宰がどうしようもなく駄目になった時、入水をするではなく探偵社に居残るようになって、やっと少しだけ距離が縮まったのだ。すべてを変えるにはまだまだ遠いところにいる。
二人きりの探偵社で太宰はいつも遠いところを見つめていた。人形のような顔をしてたった一人で何かを考え続けている。考えることに傷付きながらも考えることを止められず苦しんでる。声をかけたくなりながらも堪え、傷付いていく太宰を見つめる。私にできるのは傍にいることだけだった。
思考をやめ此方の世界に戻ってきた太宰はいつも、私をみて少しだけほっとした顔をする。すぐにそれは消え去るけれど確かにそんな顔をするのだ。
帰ってきた太宰にいつも帰ろうと声をかける。太宰の手を毎回握りしめる。冷たい手をぎゅっと握りこめば光のない太宰の目が僅かに揺れて、そっと空気も震えないほどの幽かに息を吐き出した。そんな彼を彼が暮らす皆のいる寮まで連れ帰った。
そんな日々が続いてもう四ヶ月ほどたった。
太宰は相変わらず皆の前では笑みを浮かべ続ける。体調の方は悪くなっていく一方。それでもまともに仕事はできていて皆がやれないようなことまで完璧にこなしてしまうので誰も何も云えずにいるようだった。
うっすらと浮かべ続けられる笑みはいつも通り柔らかで軽く何処かだらしないものでありながらも拒絶が見え隠れしている。そんな風になったのはもう二ヶ月も前からの話。太宰自身は気付いていないようだった。それだけなにかに追い詰められ自分自身さえも見失いかけている。早くどうにかしなければと思いながらも私はまた太宰のなかに踏み込めずにいた。一歩でも間違えれば終わりだった。焦りながらも慎重に踏み込むことの許される機会を伺っていた。
そんなときに乱歩からある頼みを受けた。それは深夜の二時頃に横濱の港にある廃倉庫に云って欲しいと言うもの。何のためにと聞いても答えられることはなかったが、頼んできたその様子から何か大切なことなのだろうと思い云われた通り、その時間その場所に向かった。
その場所にたどり着いて最初に聞こえたのは銃声だった。幾つもの銃撃音に何人もの人の声。物陰に隠れ息を潜めて伺えば十人近くいる男たちが誰か一人を襲っている状況であることが読めた。襲われている相手を確認しようと、より遠くを覗き込んでみればさぁと血の気が引いていく。気付いたときにはもうすでに体が動き出していた。
物陰から飛び出して男たちのもとに数歩でかける。銃を撃つことに気が向いている男達の死角から攻撃を仕掛ける。隙だらけの脇腹に拳を叩き込みながら、もう一人の男の脚に足払いをかけ体制を崩させる。その男の手を掴んで近くにいた男に投げつけた。攻撃で此方に気付いた男たちが慌てふためく間にも一人、二人と倒していく。銃で撃ってこようとする男の元に一瞬で詰めより銃身を掴む。無理矢理押し込めば固い鉄が男の胸元に衝撃を与える。乱暴に振り払い一つ処に固まっている数人の元に投げ飛ばした。撃とうして銃口に掛かっていた指が止まる。怯んだ所に投げ飛ばした男ごと攻撃を加えた。
さっと周囲に視線をやる。立っているものが己しかいないことを確認してやっと息をついた。男たちが撃っていたところを見つめる。ボロボロに崩れた鉄の箱の陰からぎょっとした目で太宰が私をみていた。ふるふると震える口が開く。ぱくぱくと小さく動く口が告げるのは私の名か、それともどうしてと云う言葉か。どちらにしても驚いていることはよくわかる。すぐにでも駆け寄りそうになるのを抑え、大きく息を吐き出す。
沸き上がる怒りを外に出さないように内側で処理していく。駄目だと分かりながらも怒りを抑えきれずにまだ意識があり呻いていた男を蹴り飛ばした。近くに落ちている銃も遠くに飛ばしていく。そうやって周りに八つ当たりじみた事をしてから太宰に向き直った。
「怪我はしていないか」
抑えに抑えた声が出た。それにも怒りは混じっていて己にもっと落ち着くよう云い聞かせる。ぴくりと震えた太宰の肩。呆然と見つめながらもへらりと太宰は笑った。
「怪我はしていません」
すぐにでそうになった手を気力で抑え込んだ。一歩で詰め寄りたい所、数歩で近付いてゆっくりと伸ばした手で太宰の肩を掴む。力を込めすぎないように抑え込みながら物陰に隠れた体を引き摺り出せば血だらけの姿が目に写る。ひくりひくりと震えていた口角が下がる。あっと声をあげた太宰は困ったように眉を寄せてまた笑おうとする。大丈夫ですよと告げようとするのであろう口を手で塞いだ。
「笑うな」
低い声が出た。太宰の目が震え、あげようとしていた口角が下がり目から光が消える。暗い黒に見えそうなほど暗い色をした褪赭の目が私を見上げた。苦しげに歪められる。どうしてと問い掛けられるのに私は答えなかった。無言で太宰の体にふれる。右肩に脇腹。太股。撃たれた箇所をみて、血が流れているのを止血だけはすませる。そうしてから動けない太宰の体を抱えあげる。
立ち去ろうとすれば太宰が声をあげた。その声に軍警に連絡するでいいかと問い掛ければ目を見開いた後に頷かれる。悪いと一言声をかけてから太宰の懐を探る。そこから出てきた見覚えのない携帯。それを使い抱えたまま連絡を入れる。詳しいことは何も云わず場所だけを伝えた。元あった場所に携帯をしまえば何か云いたげな目で太宰が見てくる。だけど何も言わないのに私も何も云わなかった。
少し遠かったが探偵社まで帰ってきた。医務室に向かいそこで太宰の手当てをする。手当てをする間も太宰は何一つ言葉を発さなかった。私もまた口を閉ざして何も言わなかった。
云いたいことなら山ほどあった。何故一人で戦っていたのか。どうして誰かについてきてもらわなかった。その理由を聞きたかった。あいつらが何なのか。どうして戦うことになったのかそう云ったことは今はどうでも良かった。銃を持っている時点で非合法な何らかの闇組織であることは察せられる。軍の組織などでないことも間違いない。だったらもう少し骨があったはず。太宰が社の不利益になるようなことをしていたとも思えない。それなら乱歩だってもっと違う言い方をしたはずだ。今こんな風に治療させたりもしないだろう。
だから聞きたいのは何故一人で無茶をしたのかと云うその一つ。
だけど問えなかった。無茶をするな誰かを頼れと云いたいのにそれさえも云えなかった。それを云うには私は太宰のことを知らなさすぎた。
太宰が今、何に苦しみ、そして今まで何のために足掻いてきたのか私はそれを知らない。知らない以上迂闊なことを口にするわけにはいかなかった。
言葉とは武器だ。
言葉は人の思いや気持ちを伝え、人と人の架け橋になる。言葉があるから人は意思を通じ会わせることができ、その言葉によって多くの人を救うこともある。この世になくてはならない大切なもの。
だけど、いやだからこそ言葉は武器にもなり得るのだ。
言葉は人を救い人を傷付ける諸刃の剣だ。
太宰が探偵社に入ってからと云うものずっと何かに抗い続けていることを知っている。それは己のなかにある何かで彼は必死にそれと戦いそして光の中で生きていこうと藻掻きながら歩き続けている。そんな姿を見てきて、そして壊れ始めた太宰の近くにいるようになって何となく分かってきたことがある。
太宰が抗い苦しみ血を吐きながらも光の中で生きて、この世を歩もうとするのは誰かからの言葉があるからだ。何と云う言葉だったのかは分からないけれどこの世界で生きるように誰かが太宰に告げたからだ。それは闇の世界にいた太宰を、そしてその心を確かに救ったのだろう。だけれどもそれは同時に重しとなって太宰の心を苦しめるものとなった。
言葉とはそう云うものだ。一つを救えても別の何処かで苦しめる事になる時もある。
だから人は言葉を告げる時慎重になるのだ。
云いたいことはたくさんある。もっと皆を頼れと云いたい。皆を信じてやって来れと云いたい。だけど今の太宰にそれは出来ない。周りから聞こえてくる声も言葉も太宰の過ごした今までの人生やその中で培われてしまった価値観が邪魔をして届かない。仮に届いたとしても太宰の胸、一番奥にある大きな言葉の固まりにぶつかる。それと反発しあうことなれば太宰は血を吹き出し壊れ、重なりあってしまえば重みに潰されて消えてしまう。
今、太宰はぎりぎりの所で生きている。
それを壊さずに生かすためには言葉を云ってはいけない。言葉は人の気持ちや思いを今あるものを一番に伝えるものだ。言葉が示す割合は大きい。不用意な言葉は太宰を壊す。
私に今出来るのは寄り添うことだけだ。
言葉では無理だ。太宰に言葉を届かせるため、そして届いた言葉を噛み締めることのできる余裕を持たせるため、また太宰を傷つけないですむ言葉を探すためにも今は言葉以外のものが必要だった。言葉よりも不確かながらもある意味では言葉よりもたしかな行動で示していくしかない。
大丈夫なのだと。頼っていいのだと。ここにいてもいいのだと少しずつ行動で教え込んでいくしかない。
大体の手当てを終えてそっと太宰の体から離れた。手当てをしている間もぴくりとすら動かなかった体は今もなお動かない。聞こえてくる息遣いは一定のテンポを刻み、深く慎重に吐き出されていた。まるで生きているのだと確かめているような呼吸の仕方。
そっと手を伸ばした。頭に触れる手。それでも動かない太宰。焦点のあわない目が何処かを見つめる。抱き寄せてもなんの反応もない。その体を抱き締めた。
ほぅと吐き出される吐息。僅かに体が震えたのは一時間は軽く経った後だった。
[newpage]
浅い息づかいが一定のテンポで繰り返される。自分の存在を確かめるように息を吐き出しながら太宰は色のない目で何処かを見つめていた。できたぞ。声をかければゆっくりと上がる首。ぎぎと軋んだ音が聞こえてくるように思えるほどの動き。黒に見えるぐらいに光を消した目が焦点を合わせずに見つめてくる。
その頭を撫でる。形を確かめるようにしっかり。両手で抱え込んで少しでも安心できたらと願いながら優しく。
しばらく繰り返していると暗い瞳が瞼の裏に隠れていく。
蒼白く窪んだ顔はそれでも少しだけ安らかな表情をしていた。
「ありがとうございました」
数時間後。のっぺりとした声が礼の言葉を紡ぐ。気にするなと声をかけて立ち上がれば見上げてくる目。何も言わず差し出した手を太宰は掴む。立ち上がらすとすべての力を抜いた体で一度もたれ掛かってくる。それから時間をかけて自身の力で立つ。
そんな彼の手を引いて歩き出した。
「そう。それでその時敦君が」
「ああ、こないだなどは国木田君も」
「そうそう乱歩さんのことなのですけど」
「それで与謝野さんを筆頭に他の女性陣を怒らせた谷崎君が、」
ほんの少し血色の良くなった口から様々な話が飛び出してくる。そのすべては他の探偵社社員達の何気ない日常の話。語る太宰が出てくるものは一つもない。それらに相槌を打ちながら福沢は太宰を見つめた。その手元にある膳は三分の一ほどは食べられている。半年前に比べれば随分食べられている。
そして、太宰はその口元を僅かに上向け形だけはにこやかに笑っていた。
最近になって太宰はこのように私の前でも笑みを浮かべるようになった。初めてその笑みを見たとき、無理をするのは止めろと口にしたのだが、返ってきたのはこうしていないと落ち着かないのですと言う言葉。大丈夫ですからと云った太宰はいつもよりはましな顔色をしていて……。許せば太宰は浅い笑みを浮かべたまま何気ない話を口にしだした。
最初はほんの少しだけだった。一言二言程度の話が終わると太宰は疲れたように息を吐き出して、笑みをその顔から消す。疲れちゃいましたと困ったように呟き、それからすべての感情を感じさせないいつもの表情に戻った。その頭に手をおき無理しなくてもいいと告げる。こくりと頷きながらもその後も太宰は私と二人の時間に笑うのをやめなかった。
いつも見るよりも浅い笑みを浮かべながらたわいもない話を口にする。それは徐々に時間を伸ばしていき、今では一時間ほどなら笑っていられるようになっていた。
「それで……」
太宰の話し声が止む。褪赭色の瞳が困ったように瞬いてそれから光を消した。無表情になった太宰はほぅと息を吐き出す。
「そろそろでるか」
こくりと頷く首は力ない。立ちあがり私は何時ものようにその頭を撫でた。見つめ、目を閉じそれから開いて立ち上がろうと腰をあげる太宰にまた手を差し出す。
この半年、私と太宰がこうして一緒に過ごす機会は格段に増えた。前は太宰が駄目になった時だけだったのが、今はもうひとつ機会が増えている。それは共に横濱にある犯罪組織を潰した後。
半年前に一人で何処かの組織と戦っているのを見付け、さらに太宰がその行為を繰り返していることを知ってから、私もそれについていくようになっていた。一週間に一度か二度、酷いときは三度も太宰は横濱、それだけでなくその周辺の犯罪組織を潰して回る。着いていくようになった当初は乱歩に教えてもらわなければいついくか分かることができなかった。今日行くよと教えてもらうのを繰り返すうちに自分でも分かるようになった。
そうなってから太宰は何時も何か云いたげな顔をして私を見ていた。だが、しばらくは何も言わなかった。だけどある日ぽつりと聞いた。
何も聞かないんですか。と言う言葉。聞いてほしいのかと逆に問い掛ければ間を置いてゆるく首を降られた。それなら聞かん。声に出した言葉に太宰はホッとしたような顔をした。
それから少しして太宰は行く日に自分からやって来るようになった。
言葉を言うことはない。
ただじっと見つめてくる目。それだけでも充分だった。
組織を潰し終えた後はいつも探偵社に帰る。その後にその時刻までやっている飲食店を探して食べにいく。三回に一回は怪我の手当てが間に入ることがあった。基本は太宰は後衛にまわしており、敵の殆どを私が相手にするので怪我をする場面はないはずなのだが、どうやってか太宰は怪我をした。最初は自分の体をもっと大切にしろと苛立ったものだが、そうすることで確かめているのだと気付いてからは好きにさせるようにした。変わりに手当てだけはしっかりと受けさせる。
手当てを受けるとき太宰はいつも人形のように動かない。そして一定の呼吸を刻む。終わった後も動かない太宰の頭を撫でてから抱き締めるのもまた恒例となり、すべてが終わり帰る頃には日が明けているのが常だった。その時は早めに開店している店に入り太宰に食べ物を食べさせる。
回数が増えたお陰で痩せすぎて皮だけになっていた体は少しずつ肉がつきつつあった。顔色も以前と比べると幾分か良くなり、精神的にもすこし余裕を取り戻したように思う。皆の前で張り付ける笑みからぴりぴりとした突き刺すような気配が消えている。以前のものに戻っていた。
いつかはその笑みすらも消え、その心からの笑顔を見せてくれれば。望みながら私は太宰の傍に居ることに徹していた。
「社長」
太宰の声が私の名を呼んだ。
にっこりと貼り付けた笑顔は不自然なほどに動かず褪赭の瞳が私を見つめてくる。まだ日の高い時刻。探偵社の社長室に私達はいた。太宰の手に握られているのは前の仕事での報告書。前まで太宰は報告書を自分で出しに来ることをしなかった。国木田や敦が持ってくる報告書の中に上手いこと紛れ込ませて避けていた。それを持ってくるようになったのは共に夜出掛けるようになってから。
じっと見つめてくる瞳はその合図。
最近になって報告書の中に今夜行く場所や相手の人数、武器の数。さらにそれがどう云った組織なのか等が事細かに書かれた作戦書が挟まれるようになった。
太宰はそれを渡すとき何時もためらう。少しだけ迷い手首を震わせながらゆっくりと渡してくるのだ。貼り付けた笑みは可哀想な程に凍り付きながら、その凍りついた目で私を見つめる。
今日はそれがすこし違った。
何時ものように躊躇いながら渡される。じっと見つめてくる瞳。だけどその瞳は何時ものように凍り付いてはいなかった。何かを迷うようにゆらゆらと揺れて、何かを云いたげに口を開く。
「どうかしたか」
太宰が私を見、それから俯いた。ゆるりと振られた首。いえと音にされた言葉。納得はできなかったが無理に聞き出すこともできず、数分無言で向き合った。
その日の夜もやはり太宰はいつもと違った。敵を殲滅するまでは何時も通りだったのだが、その後はいつも以上にぼんやりとしていた。探偵社への帰り道の途中。何度も足を止めては立ち止まる。表情が消え焦点の合わない目は何時も通りなのに、何時もよりもずっと消えていなくなりそうな雰囲気があった。
恐くなってその手を掴む。冷たい手だった。
握りしめて探偵社までの道を歩く。太宰の歩調は酷くゆっくりとしていた。歩きながらかつて探偵社までの道を乱歩に教え込んだときのことを思い出した。それとは随分と違うと言うのに。
探偵社に辿り着く。鍵をあけ中に入り込めば太宰はそこで立ち尽くした。今日はどちらも怪我はなかった。汚れた着物を取り替え、少しだけついてしまった返り血を拭う。その間太宰はされるがまま。立ち尽くしたまま動かない。何時ものことだ。すべてを終えて終わったぞと声をかければようやく太宰は動き出す。だけど今日の太宰はそれでも動かなかった。
焦点の合わない目で私を見つめ、それから俯く。昼の事を思い出した。
迷うように揺れていた目は今も揺れる。不意に着物の裾が何かに引っ張られるのを感じた。下を見やれば太宰の親指と人差し指が爪先だけで裾をつまんでいる。
「……す」
小さな声だった。物音ひとつしない暗闇のなかでも聞こえないほどに小さな声。返事ができないでいると再び太宰は声を紡ぐ。
「眠れないんです」
聞こえた声に目が見開くのが分かった。太宰を見つめるも見えるのは旋毛だけだ。その下の顔を見ることはできない。
「最近、眠れなくて……」
紡がれていく声は小さく迷い続けている。本当に云って良かったのか間違ってしまったのではないかと迷う声に声を重ねる。
「そうか。なら今日は私の家に来ないか」
何度かしたことのある提案。その度に首は横に振られてきた。旋毛が動いた。見上げてこようとしてその途中で止まり、下ろされる。
「人の温もりと言うものは存外悪くない。安らげるものだ。だからお前がよければ今日は共に寝てみぬか。丁度私も人恋しく思っていた頃なのだ」
長いこと太宰は動かなかった。その動かない頭に手をおき撫でていく。そうしていると何十分後かに動く。
こくりと小さく縦に。
気のせいかと思うほど微かなものではあったが、それが太宰の返事であった。
「では、帰ろうか」
裾をつまんだままの手を取った。
⚪️
目覚めたのは何か暖かなもののなかだった。
全身が暖かいものに包まれ、何かふわふわ、いやぽかぽか……見知らぬものが胸の中を満たしていた。目覚めたくないと思いながらも目を開ける。
そして目を見開く。
目に入ったのは黒い着物に包まれた誰かの胸板。すぐ傍に人がいたと言う事実に愕然としながら私は昨夜の事を思い出した。
昨夜私が社長に自ら眠れないと告げたのだ。こうなるであろうと予測した上で。想像通りの展開。だけど予想外だったのは私が寝てしまっていたこと。眠れるなんて思ってもいなかった。それが……。
眠れてしまった。
すぐ傍に誰かがいるなぞ絶対に無理だと眠れるはずなどないと思っていたのに。やはり私は……。
「太宰」
声が聞こえてきたのにハッと顔をあげた。思考に沈んで社長のことを忘れていたことに気付く。
「おはよう。もう起きれるか」
見上げる社長は寝起きのためか、いつも眉間に刻まれている皺が消え、普段よりも穏やかに見えた。その印象のままの声が問いかけてくる。頷けば起き上がった社長が手を差し出されて。迷いながら掴んだ手は大きく、簡単に私を起き上がらせる。朝食を共に食べようと云われるのに少し考えてから頷いた。
社長の家の朝食は焼き魚におひたし、卵焼き、お味噌汁に漬物、それに白米と云うよくテレビで見るようなものであった。私自身は初めて目にする。それがきっと普通の家庭の朝食なのだろう。そう思いながら口の中にいれた。私の家の朝食はと思い浮かべてみたが、そもそも朝食と呼べるものを食べたことがなかった。最近たまに行く社長との食事ならば時間的には朝食と呼べるのだろうか。
「旨いか」
もそもそと口にしていれば社長が問いかけてきた。いつもとは違い何処か窺うような視線を感じていたので何だろうとは思っていた。問われて納得する。そうだ。普通は人に自身の手料理をご馳走するときは感想が気になるものなのだ。この人もそう言うことが気になるのか。少し驚きながら美味しいですよと口にしようとした。
だけど言葉は出ようとしなかった。喉元で固まって音になることがない。何とか言おうとしたが言えずに変わりに別の言葉が出ていく。
「私に聞いても無駄ですよ」
視線をはずしてしまいそうになりながらも見つめた先で社長は訝しげに目を細める。眉間に皺が集まるのを見つめる。
「私昔から食べ物の味がわからないんです。何を食べても味がしなくて同じようなものにしか思えません。なので私に味の感想などを求めても意味はないのです」
普段違いの分からぬ瞳が見開かれるのがよく見えた。それを見ながら口にはこんだ焼き魚はかろうじて熱いことだけは分かる。だが、それ以外は何もわからなかった。
「そうか」
数分ほどして社長の声が聞こえた。幾分か固いそれにええと返しながら私は終わったことを悟った。
何故云ってしまったのだろうと後悔染みたことを思いながら仕方なかったのだと私は心のなかで自分に言い聞かせた。仕方なかった。
でないと私は勘違いしてしまうから。
私は今まで誰にも自分に味覚がない話をしたことはない。森先生にだって話したことがない。だってそれはおかしいことだと分かっているから。だから口にしない。代わりに美味しいと口にして味覚があるようなふりをする。それが人としての普通だから。それなのに社長に云ったのは私が間違えないため。
辛いと思った時社長が傍にいてくれるようになり、社長に今の私は生かされているのだと理解した。
それだけならまだ良かったのにその後も社長は私にずっとよくしてくれて、襲い来る暗闇から逃げるため一人続けていた犯罪組織の壊滅にまで付きあってくれるようになった。初めて見つかったときは驚き、その後の行動にも困惑した。だが何も聞いてこない社長が手当てをしてくれ抱き締めてくれたのに、何処かが楽になるのを感じた。ついてくるようになってからも社長は何も聞いてくることはなかった。
聞かないのですかと聞いた。聞いて欲しいのかと聞き返されたのに何も答えることができなかった。聞かれたくなかったから。
手当てをしてくる手はいつも優しかった。
社長が共に来るようになってからは後衛に回るようになった私が怪我をするような事態には殆どならない。それでも私は無理矢理怪我をした。そんな私に呆れている筈なのに社長はただ優しく手当てをしてくれた。心配するように怪我をした箇所に触れながら、過剰なまでの処置を施す。
それが終わった後社長はいつも頭を撫でてくる。まるで親が子にするように撫で、そして抱き締めてくる。
暖かな体温に包まれ社長の鼓動を聞いた。
とくとくとリズムを刻みながらなるそれに、この人は生きているのだと思い、同じ音が自分からするのも耳をすませて聞いた。
それが終わると社長はどんな時刻であろうと私を食べに連れていた。胃に食べ物を流し込む作業を繰り返し、落ちてきた栄養を必死に消化し、体に回そうとしているのを感じて人となっていく。
そんな日々を続けていると私はある日不意に思ったのだ。
暖かな腕に包まれ、鼓動を聞いている時、まるで許されているみたいだと。そう思ったのだ。
生きていることを許されているみたいだと。
その事に酷く狼狽しそして私は納得した。
ああ、そうか私は許されたかったのだと。誰かに生きていることを許されたかったのだと。だからこそ大切な友であった織田作が最後にくれた言葉に執着した。彼が、友である彼が云ってくれた善い人になれと云う言葉。善い人になったら許される気がした。他でもない彼に生きていることを許されるきが……。ああ、そうか。ここでもまた思った。納得した。私は彼に許されたかったのだ。だが許されずに逝ってしまったから彼の残した言葉をなすことで許されようとしていたのだ。
だけど、私は未だなれきれてはいない。許されていない。そんなときに優しくされ生かされて私は許されている気がしてしまったのだ。
そんなはずないのに。
善い人にもなれていない私が誰かに許されるはずもないのに。
だからわざと口にした。人ではないのだと言葉にした。これでもうきっと社長は私に手を伸ばすことをしなくなるだろう。それを少し悲しく思うけれど必要なことなのだ。勘違いして間違いを犯さないために。
………その筈だったのに。
数日後、私は信じられない思いで目の前の人を見た。もうついてくることもないだろうと思い一人で行こうとした夜中、現れた社長。何も聞くこともなく行こうと口にする。呆然としながらそんな彼についていた。そして犯罪組織をひとつ潰した後は何時ものように探偵社へと連れて帰られる。服を着替えさせられ血を拭われるのを見ていた。怪我は今日はしなかった。その事を注意深く確認しながら終わった後社長は私を見つめた。
夜の闇のなかで銀灰色の瞳は不思議に輝く。
「 また、今日も私の家に来ないか」
掛けられた声に目を見開いた。どうして聞いたような聞けなかったような。
「人寂しいのだ。こないだのように共に寝てはくれまいか」
重ねられる言葉に驚き首を振ろうとし、止まる。頭が重く下に落ちた。社長の手が私の手を握りしめる。
そして朝、こないだのように社長の腕のなかで目覚めた。自分の体温よりも暖かなそこはまた私に奇妙なものを抱かせる。前の時と同じで優しく社長に起こされてそれから朝食を共にと誘われる。奇妙に思いながらも頷いた。
今回の朝食は前回とは違うものだった。食べてもほぼ同じものを繰り返す私は良くできるものだと感心してしまう。今日は肉じゃがにカボチャの煮物、ひじき、漬物、味噌汁、それから白米だった。席について口に運ぶ。
「今日は全体的に甘めに作ってあるのだが、どうだ」
運んでいるとちゅうに問い掛けられて固まる。何故そんなことを聞くのだろうと思いながら社長を見つめた。
「そう云われても私には分かりません」
「ああ、でも甘めなのだ。匂いなどはどうだ」
におい、ぼんやりと声がでた。そう言えば何だか甘めの匂いがしているような気がした。社長を見つめる。それから膳を見つめる。何でと云いたくなってやはり声にはできなかった。
[newpage]
「太宰、どうだ。今日は酢を使った料理を多くし、全体的にさっぱりとした味付けにしてみたのだが」
聞こえてくる声に私は僅かに首をかしげすんと匂いを嗅いでみた。確かに酢の匂いがする。口に入れても味は分からない。鼻に突き抜けるような匂いだが酢とはさっぱりとした味のものだろうか。そもそもさっぱりとした味とはなんだ。さっぱりは爽やかなとかそう言った感じの意味だろう。爽やかな味……、わからないな。
「歯応えなどはどうだ。今日は噛みごたえのあるものにしてみたのだが、」
今度はそちらに意識を向ける。確かにいつもより少し固いような気がする。口の中でこりこりと音のするような感じ。こう云うのを楽しむ人もいるのだろうが、私は面倒だな。すぐ飲み込めるのがいい。
「やはりお前は好かんかったか。お前はもう少し食べやすい方が好みか」
問われた意味が分からず呆然と固まってしまった。好みも何も味がわからない私には食べ物に好き嫌いもないのだけど……。強いて言うなら食べること事態が嫌いだ。食べることに意味をみいだせない。
「そうだ。今度は少し面白いものを食べさせてやろう。気に入ってくれるといいのだが」
何も言えずに社長を見つめた。あの日から社長がますます分からない何かになった。味覚がないのだと、まともに味も分かることのできない化け物なのだと私は自らばらしたと言うのに、社長は気味悪がって私を遠ざけることをしなかった。それどころかあの日から出掛けた夜は毎度のごとく自らの家に来ないかと誘いをかけてくる。
そして夜私を抱き締めて眠るのだ。気味悪く思いながらも社長の腕のなかでだと余計なことを考えずに熟睡することができ、それに抗うことができず頷いてしまう。朝目覚めた私に訪れる不思議な感覚もその理由の一つだった。胸のうちに溢れるぷかぷか、ふわふわと云ったような、うまく説明できないが何か地に足がついていないような、浮かんでいるような感覚。何度か味わううちにそれが不快なものではなく心地よいものであることに気付いてしまった。
その感覚を味わいたいとまで思うように。このままでは駄目だと思いながらも流されてしまう。
そして社長は朝になると必ず私に朝食を食べさせた。夜も夜で今まで通りに夕食を食べさせられるのだが、それと朝は違うものだった。
朝、社長が私に食べさせるものはいつも違っていて、甘めだったり、辛めだったり、濃いめだったり、匂いの強いものだったりと色々であった。それをこれはこうなのだと、これはこういうものなのだと説明しながら私にどうだと聞いてくる。いくら聞かれても私には分からぬのに繰り返し繰り返し。料理などに微塵も興味がなかった私なのだけど、それでもそのうち社長がだしてくるものが朝と言う短い時間で作れるものでないことにも気づいてしまった。きっと出掛ける日などはその前に仕込みなどをしているのだろうと思うと、社長が何をしたいのか余計にわからなくなる。
何でそこまでするのか。そうして私にどうしろと求めているのか。川に迎えに来るようになった頃からずっと考えている。
どうしてなのか、何故なのか。それが社長の優しさゆえなのだと、私のようなものでも放っておくことが出来ないのだと分かるけど、でもそれでも……。どうしてここまでのことを私にするのかが分からない。そこに一体なんの意味がある。私みたいなものに優しくした所で何かが返ってくることはないのに。
私には社長が私などよりも余程意味の分からない何かに見えていた。
「おいしーーい!! これ、美味しいですよ。太宰さん」
店内に敦君の明るい声が響く。私はそれをにこにこと見つめた。
美味しい美味しいといいながら目の前にあるものを食べていく敦君を見てると何となく楽しい気持ちになる。
「分かったからもう少し落ち着いてくえ。詰まらせるぞ」
「良いじゃないか。とても美味しそうで見ていて楽しいよ」
「うっ。……すみません」
心から思ったことを云ったのに何故だか敦君は恥ずかしそうにしてばくばくと食べていたのをやめてしまった。それでも食べる敦君の顔はにこにことしていてみていると気持ちいいものであるのに代わりはなかった。
「太宰さんもちゃんと食べてください。凄く美味しいですよ」
「食べてるよ。とても美味しいね」
でしょうと敦君が嬉しそうに笑う。これだから敦君と食べるのは楽でいいなと思う。本当に美味しそうに食べてくれるから判断に迷わなくてもすむ。国木田君なんかは何食べてもあまり変わらないから聞かれたときなどに少し判断に迷う。それで言うと鏡花ちゃんもちょっと分かりにくいところがある。でも美味しいときは瞳が輝くし箸が進むスピードが早くなるからそれが美味しいものだと分かる。与謝野先生なども分かりにくいところがあるかな。でも他の子はみんな分かりやすい。探偵社は素直な子が多いから。
その中でも敦君は乱歩さんの次ぐらいで分かりやすい。味は分からないけど敦君を見てたら美味しそうだと思っちゃう時もあるぐらいで。
にこにことして楽しい気持ちでみていたのだけど、ふと社長のことを思い出してしまった。やはり妙だよなと思ってしまう。どう考えても私のような味もわからないつまらないものと食べるより、敦君たちと食べた方が楽しい思いができるのに。
私みたいに全部食べられず残すことだってなく、ベロっと平らげておかわりだってしてくれるのでは。美味しいって言われる方が嬉しいだろう。
敦君でもなくとも国木田君とかでもきっと美味しいと言って食べてくれるはず。感動して食べられないなんてこともありそうだけど。でも私と食べるよりは楽しめるんじゃないかなと思うんだけど。
「太宰さーーん?」
「ん? 何だーーい。敦君」
「ちゃんと食べてますか? さっきから箸が進んでませんよ」
「食べてるよ、食べてる。ただちょっと考え事をしていてね」
「考え事だと。まさか貴様こんな場所で何かしようなどと企んでいないだろうな」
「企んでないよ。大丈夫。ちょっとしたことを考えていただけだよ。あ、そういや国木田君は社長の手料理とか食べたことあるかい?」
「いや、ないが。何でそんなこと」
「何だ。ないんだ。あるかと思ったのに」
思いたかったのに。手料理を人に食べさせるのが好きなだけなんだって。まあ、それだけだとしたらやはり人選がおかしいか。私しか捕まらないなんてことも社長に限ってないし。でもなら、やはりなんで
「お前まさかとは思うが社長にたいして妙なことをしようなどと考えていないだろうな」
「考えてないよ。ここ最近は私だって真面目に働いているだろう。そんなに疑わないでほしいなーー」
「うっ。いや、しかしだな最近はどうあれ、今までのお前の行いがだな」
国木田君が何かぐちゃぐちゃ言い始めたので取り敢えずシャットアウトすることにした。手が止まってしまっている敦君にも食べるよう促しながら、妙なのは社長の方なんだけどなと考えてしまった。
「料理の味見??」
こくりと頷いた後にダメと聞いてくる声。思わずだ目ではないけどと口にしてしまうのにいや、ダメだろうと自分で自分にツッコミを入れてしまう。味など分かりもしないくせに何を引き受けているのか。
ただ純粋な目で見上げてくる鏡花ちゃんを納得させるだけの断る理由がないのも確かでここは受け入れるしかないのだけど。まあ、何とかなるか。
「でもなんで味見なんて。鏡花ちゃんは料理できるんじゃないかい? 敦君から鏡花ちゃんが作るものは凄く美味しいと聞いているよ」
「レパートリーを増やしたいの。似たようなものしか作れないから」
似たようなものでも作れるだけマシ。むしろ毎日作ってるだけで凄いと思うのだけど。鏡花ちゃんは真面目だな。
こんなの適当に選んでしまえばいいのに、やはり鏡花ちゃんは真面目だな。暇ででそうになった欠伸を噛み殺しながら適当にとった一冊を鏡花ちゃんに見せる。これなんてどう? と差し出した本を手に取ったかと思うと、鏡花ちゃんは真剣な目で中身をみて値段を確認する。腕に持った本と見比べてからごめんなさいとしょんぼりとした声で戻してきた。
「気にしなくていいよ。それより鏡花ちゃんはどんな本がほしいんだい」
「できるだけ色んな料理が乗っていて安いのがいい」
「なるほどね。んーー、なら」
どれかよさげなのがあるだろうかと少し真面目になって本棚に目をやる。レパートリーを増やすために料理の本を買いに来て早三十分以上。きっと敦君に美味しい料理をたくさん食べさせてあげたいのだろう鏡花ちゃんには悪いが、私はそろそろ帰りたかった。なので眺めていただけなのをやめ手伝うことに。
こうしてみてみると、悩むのもわかるぐらいたくさんあるものなの。んーー、と探して私は固まってしまった。
きょとりと目が瞬いてしまう。美味しいおかず百選。簡単料理集。手軽に作れる本格イタリアンだとかが並ぶなかで異質なものが見えた。
味覚障害のための料理本。味覚障害でも楽しく食べれる料理。食事で味覚障害を治す。他にも数多く並ぶ味覚障害者用の料理本。つい目を奪われてしまっていると裾が引かれた。ハッとして見下ろすと鏡花ちゃんの目が真っ直ぐに私をみていた。
「貴方も味覚をなくしたことがあるの?」
「え?」
鏡花ちゃんが私がみていた場所をみる。異質に見えてしまうその場所をじっとみてから、また私をみた。
「私も少しだけなくしたことがある。濃いものとかならぼんやりと味が分かるけど、でもほとんどは分からなかった。その間は食べるのが凄くつまらなかった。たまに好きな物を食べる時は昔のことを思いだして美味しく思えたりもしたけど、後から凄く寂しくなった。食べるのが嫌いになった。
でもあの人と暮らすようになってから変わった。何でも美味しそうに食べるから見てるだけで楽しくて私も楽しく食べれたの。美味しいって思うようになってた。味覚も戻っていて今はちゃんと味が分かる。だけどたまに不安になるの。
私の味覚がおかしくなってないかって。だから味見を頼んだの」
彼女が話す内容になるほどと思った。新しい料理を作るからと言ってもわざわざ味見など頼まなくともと思っていたのに納得がいた。同時に鏡花ちゃんも味が分からなくなっていた事があったのかと少し驚いた。だが……。
「貴方もあったの?」
見つめてくる目。言葉にはしないけれど同じ存在が居たことにホッとしているのが分かる。
でも……。
「うーーん。残念ながら味覚をなくしたことは私はないね。ただ私の知り合いにそう言う人が居たからつい目がいってしまっただけだよ。それにかなりの量並んでるからね」
鏡花ちゃんが残念そうなホッとしたような顔をする。きっと私が自分と同じような苦しみを味わってこなかったことに安堵してくれたのだろう。探偵社の人間は基本的に優しい。私のようなものにすら優しい。
私は味覚はないけれど失ったわけではない。最初からなかった。何かを美味しいと思ったことも、食べることを楽しいと思ったことも産まれてから一度もない。最初から機能としてなかったのだから私と鏡花ちゃんは違う。だが鏡花ちゃんと同じような存在を幾人か知っているのは本当だ。マフィア何て血生臭い場所だと鏡花ちゃんでなくとも味覚をなくす人の一人や二人はでてくるのだ。大抵そうなった人間は心を壊し悲惨な死を遂げていたから敦君に会えた鏡花ちゃんは幸運だろう。
「確かに凄く多い。こんなに並んでるの初めてみた」
「ねぇー。私はあまり本屋に来ないからよく知っている訳じゃないけど、こう言う本は一二冊並んでるようなイメージだったから驚いたよ」
何となく一冊だけ手に取りパラパラと開いてみた。ただの興味本意で意味なんて全くなかったのに捲っていた手が止まってしまう。僅かに手が震えてしまった。
「どうかしたの」
「いや、中々興味深い内容だと思ってね。それにしてもやはり量がおおいね。普通の料理本よりも多いんじゃないかい」
かけられた声によって我に返った。私は誤魔化すように笑い誤魔化すように話した。笑い話にでもするつもりだったのにそれな出来なくなったのはそうでしょうと言う店員の声が聞こえてきたからだった。丁度近くまで来ていた店員に話の内容が聞かれていたようで、半笑いを浮かべながらその店員は話してくれた。
「最近味覚障害者の本を色々注文してくるお客さんがいて、ご贔屓のお客さんだからって店長が注文されてない分まで大量に発注しちゃったんですよ。一々注文をとらせるのが悪いからとか言って。まあ、買いに来てくださるからいいんですけど。でも今のところそのお客さんしか買っていかなくて」
お客さんもどうですか。買っていきませんか?
最後にかけられた言葉はもうほとんど聞こえていなかった。それでもなんとか言葉を返せていたと思う。頭の中がほぼ真っ白で覚えていない。いつの間にか鏡花ちゃんとも別れていたけど、ちゃんと彼女に謝れていたのか分からない。
何が何だか分からないうちに……私は、社長の家の前まで来ていた。その玄関を前にして立ち尽くす。何度か呼び鈴を押そうとしてその手が下に落ちた。持ち上げるのも出来なくてぶらりと手が垂れ下がるだけになる。
どうにかしなければと思うのに何もできずにそこに居続けている突如、玄関の戸が開いた。
見えたのは小さく目を見開いて驚く社長の姿だった。
「太宰どうかしたのか」
声をかけられるのに何も言えない。言いたいことがあるのに声にならなかった。固まったままでいると社長の手が垂れ下がっていた手を握り締めてくる。
「中にはいれ」
促され手を引かれるのに間をおいてから足が動いた。今になってこんな時間に来て邪魔になってしまったかと考えが浮かんだが、帰るとは言い出せなかった。
居間に案内されて座らせられる。待っていろと言った社長が戻ってきたときには、その手に湯気のたったコップがあった。コップを置いた社長は少し迷ってから隣に座った。飲みなさいと言われるのにゆっくりと頷く。手を伸ばし触れれば指先にぬくもりが伝わる。口に含めば丁度いい温度だったそれを飲んでいく。胃の中に暖かなものが広がっていく。体がほんわりとしてくるのに長いこと外にいて随分と冷えていたことに気付いた。飲み終えてコップをおけば社長の手が伸びて私の頭に触れた。
優しく撫でそれから扉の方に引き寄せられる。子供をあやすようにぽんぽんと触れられるのを感じてそんなに酷い顔をしていただろうかと今更ながら少し気になった。問いかけたいことがあって口を開こうとした。だけど薄く開けた隙間はそれ以上開かず、言葉を口にすることができなかった。
見上げると社長が私を見つめていた。柔らかく優しさと心配の混ざった目をしていて言葉が余計に出なくなる。胸が苦しくなって目を閉じた。
まるで寝なさいとでも言うようにぽんぽんと触れていたのがゆっくりと撫でる形に変わっていく。
目を開けると随分と時間がたっていて部屋の中が真っ暗になっていた。身を離せば立ち上がる気配。部屋の明かりがつく。
「夕食を共にどうだ」
第一声はそれだった。頷けばでは、作ってくると社長は厨房に向かう。その背を見送ってから私は気配を出来る限り絶ち、部屋の中を動き回った。音をたてないように引き出しをあける。戸棚の中をくまなく探す。目につくところすべてみて、それから押し入れに目を向けた。気付かれないようにそっと開けて中を覗く。手前の方に大きな箱があるのが目についた。気になってそれに手を伸ばす。蓋を開け中に何が入っているのかを確かめる。
入っていたものはたくさんの本であった。本屋で見た味覚障害者のための料理と言ったものから、医学的な専門書までがずっしりと詰め込まれている。
数秒凍りつき動けなくなりそうになりながらも蓋をし元あった位置に戻した。元いた場所に戻りながら呆然と机の上を見つめる。またも真っ白になった頭。考えることを放棄しようとする。
だけども、二人分の膳をもって社長がやって来るのを見つめたら急速に動き出してしまう。
そして一つの答えをだす。
この人は私を人間にしようとしているのだと。
そんなの、そんなの。
出てきそうになる言葉をなんとか飲み込んで、考えてしまいそうになるのを食べることに集中して打ち消していく。そんなはずはないのだと。
「太宰さん、大丈夫ですか?」
聞こえてきた声にハッとした。意識が落ちかけていたことを認識する。
「大丈夫だよ」
返事をするのが少し遅くなってしまった。そのせいで敦君の顔がますます心配そうなものになる。それにもう一度大丈夫だと繰り返す。
「最近寝不足でね。でもそれも今日で終わるから心配ないよ」
ならいいんですがと聞こえてくる声に大丈夫ともう一度。それは敦君にいつと言うよりは自分に言い聞かせるためのものだった。
社長の家に言ったあの日から一週間。私はもうずっと眠れずにいた。ご飯さえまともに食べれない。だけどその理由は今までのものとは大きく違っていた。気づけばずっと考えてしまうことがある。思ってしまうことがある。
明らかに間違いなのにそうではないのかと考え思ってしまうことが。
だから今日はそれを終わらせるつもりだった。
「社長」
仕事終わりの帰り道。一人で帰っていた社長に向けて声をかけた。振り向いた社長がどうしたと聞いてくるのに今日社長の家にお邪魔させてくださいと口にする。社長は驚きながらもいいぞと云った。夕食を食べていくかと云うのに迷った。
本当はもっと早く云うつもりだったのに云えないまま時間だけが過ぎて夕食を共にすることになった。
社長の作った料理。
社長が私を人間にするために話しかけて来るのを聞いてやっとのこと喉が動く。
「社長」
呼んだ声が震えていた。恐れていると感じながらそれでも口を動かす。
「かつて私は人を殺しました。それもたくさんの数殺しました。自分で殺したこともあれば、部下を使って殺させたこともあります。数百人いた組織を一晩で殲滅したこともあります。幼い子供を殺したこともあります。まだ五六歳の子供の前でその両親を殺しそして泣き叫ぶその子供を殺したことも。部下に殺させた人の中には身籠っていたものも多くいました。嘘の情報を流して自分達で殺し会わせたこともあります。助けてと泣き叫ぶ者を何人も何人も殺してきました」
言葉に出し終えると息を漏らしそうになる。それを耐えて社長の反応を待った。口を閉ざした社長は下を向いていた。その顔が今どんな表情をしているのか分からない。話している間に見ておけば良かったと思った。声に出すので一杯で社長がどんな表情をするのか見れていなかった。だけどいいやと思った。どうせ結果はひとつだけだ。
そう思って待っていたのに。
「そうか」
しばらくして聞こえてきたのはその一言だけだった。その後に続いたのは冷めてしまうから早く食べなさいそんな言葉。予想とは違っていた。
見える社長の様子も悲しげでこそあるものの穏やかなものだった。
その後は呆然としてしまい一口も食べることができなかった。私に社長は何も云わずただ気づけば風呂に入れられ、そして社長の腕の中で眠りにつかされていた。
暖かな腕がただ優しく私を包んで安らかな眠りの世界へと誘った。
「騙したやつらが後から気付いて騒いでくることもありましたが多くは無視しました。たまに面倒なのがいて、そう言うのは口止めに殺しました。中には騙されたせいで家族も何もかも失って身を投げるものも多くいましたね。騙されたものの家族の中にも身を投げたものは多くいました。彼方の世界に身を落とすものもいましたね」
「拳銃を突きつけて脅せば大抵のものは何でも言うことを聞きましたし、そうでないものも家族や他の大切なものに銃口を向ければ簡単にこちらの好きにさせてくれました。やはり拳銃は強い。引き金を引くだけで殺せてしまいますからね。他には社会的地位なども脅すにはよく使えましたね。泥の中に落ちてしまった人間は中々立ち上がることができませんから。ちょっとしたネタを掴んでしまえば何でもこちらの願いを叶えてくれます」
「体を開いて好きにさせてちょっと声をあげてあげればいい。高く甘く。それで少し笑ってやったりするとね男と言うのは馬鹿な生き物ですから喜んであっさりと隙を見せてくれるんですよ。その首をちょいと刃物で切りつけたこともあれば、べらべらと情報を喋らせるときもありましたね。どちらにしても最悪ですよ。
情報を喋っただけの者だって機密情報を漏らしたと言うことで仲間からリンチされ殺される。そうならなくとも結局自分がばらしたせいで組織は潰れ殺されるのですから」
一週間私は社長のもとに通った。そして私がマフィアでやって来た犯罪行為の数々を語った。それで苦しんでいた人々の話をした。だけど社長はいつもそれに対して何も言わなかった。何も云わず私に寄り添い、そして私を人間にさせようとしていた。
言葉が出ていかなかった。
今日も社長の家に来た。今までよりももっと酷い惨たらしいまでの話をしようと色々考えてここまで来た。
なのに言葉が何も出ていかない。
夕食を食べる社長をただ見つめる。云わなければ、話さなければと思っているのに口は開かず、手足も動かなかった。石化したかのように固まってしまっていた。
食べ終わった社長が立ち上がる。膳をそのままにして私のもとまで近付いてくる。隣に座り込んだ社長は私の頭に触れて抱き寄せてくる。泣く子供をあやすように両腕で抱え込まれるのに肩が震えた。
何故。
小さく言葉が落ちた。やっと何かを云えるようになったのに出てくるのは私が言いたいことではなかった。
「どうして。何故私に優しくするのですか。分かったでしょ。私がどれ程酷いか優しくする価値などないことが分かったでしょ。
なのに何故」
包み込んだ手が私の頭を撫でる。しばらく沈黙が続いたけれどそれは破られ社長の声が聞こえる。
「太宰。私とてお前と変わらん。お前が酷い人間だと云うなら、私もお前と変わらん酷い人間なんだ。私もまた人を殺した。刀を握りその刀で幾人もの人を切った。人の命を奪った。教えるのも馬鹿らしくなるほど殺した。その中には勿論家族のいる者もいた。家族ごと殺したこともある。お前がしたように幼い子供の前でその両親を殺しそして子供を切った。
私もお前と変わらないのだ」
聞こえてきた言葉。だけどと声が震えた。そんな話をされるとは思っていなかった。私と社長ではその意味もその重さも違うのに。それと同じと言われても……。
「貴方は、貴方がそうしたのはこの国のためで……」
「やはり知っておったか」
「少しだけですけど」
声を出したのに社長が悲しげに笑う。それをみて酷いことをしてしまったと罪悪感がわいた。社長の過去は何となく知っていて、そしてそれを誰にも知られたくないと思っていることも知っていた。
ごめんなさいと口に出そうとしてふと止まった。ならなぜ社長は私にその話をしたのだろうと
「ああ。確かに。私はこの国ために刀を握り人を切った」
答えにたどり着く前に社長が話し出した。
「そうすることでこの国に平和が訪れるのならばとその為にやってきたことだ。だけどお前とて同じであろう。お前も同じで他の何かのためにそうしてきたのではないのか」
えっと声が落ちた。何を云われているのかわからなくなった。何の話をしていたのだったかと考えた。
「お前は自分がしたいからお前が云ってきたことをしてきたのか。自分のためだけに? 違うだろう。太宰。お前はポートマフィアのためにやってきたのではないのか。お前自身がやりたかったわけではないだろう」
社長の声が聞こえた。理解するのに長く時間をかける。途中分からなくなりながらそれでも理解して分からなくなる。
「でもポートマフィアにいたのは私の意思です」
「そうだな。それはお前の意思だ。だけど太宰。もうお前はポートマフィアではないだろう。今のお前は探偵社の太宰治だ。
もうかつてのように人を殺すことはない。
今のお前は探偵社のために、いや」
そこで社長は言葉を切った。何かを考えるようにしてから一つ頷き息をはく。
「武装探偵社の社員として人を守り人を救っていく。もう誰かを傷付けることはない。かつてのことをなかったことにするのは無理だが、今はそれだけあれば充分だ。
大切な社員が傷付いているのであればそれを守るのは私の役目だろう」
ぎゅっと抱き締められ暖かなぬくもりが強くなった。目頭が熱くなった。喉が震える。意味のない音がでそうになった。
何度も考えてはそんなはずがないと打ち消してきたことが私の中で言葉になる。
貴方は、唇が震え声が出た。それに続いてでそうになる声を必死になって飲み込む。
ああ、それでも唇が震えた。
●
すやすやと安らかな寝息が聞こえだしてきたのにつめていた息が吐き出された。寝入っているのを確認して抱いた腕に力を込める。寝入る前に聞こえてきた言葉が何度も私の中で繰り返される。
「貴方は、……許してくれるのですか。私が、私が……生きることを許してくれるのですか」
その言葉を聞いたとき今まで太宰と過ごしてきた日々のすべてを思い出した。そしてわかった。腕の中にいる幼い子供はずっとただそれだけを求めていたのだと。生きることを許される。それだけのことを求めていたのだと。そんな誰にも……求めなくともいいようなものを。そんな、求めなくともあるようなものだけをずっとずっと求めて傷付いてきたのだと。
抱き締める腕に力がこもり過ぎないように気を付けながら、それでもぎゅっと抱き締めた。
幼い子供が安心して眠れるように。
[newpage]
夕食の準備をしているとふと玄関に誰かが立つ気配がした。火を止めて急いで向かう。ドアを開ければそこには太宰がぼんやりと立ち尽くしていておいでとその手を掴み招き入れた。
居間に案内して卓の前に座らせると私もその隣に座る。ぼんやりとした眼差しの太宰を抱き寄せて肩に凭れさせた。ほぅと息を吐き出すのに頭を撫でてやれば太宰はゆっくりと目を閉ざす。そしてほんの数分の間眠りにつく。
あの日から太宰は私の家によく来るようになった。一週間に一度それよりももう少し多いだろうか。来る時間はばらばら。呼び鈴を鳴らすことなく玄関前に立ち尽くすので、家にいるといつも玄関前の気配を探るようになってしまった。開けるといつもぼんやりと立ち尽くしている太宰はほんの少し嬉しそうな顔をする。中に招きいれそれから肩を貸す。自分からは凭れかかってくることはないが、片手で抱き寄せればすんなりと収まる。そしていつもほぅと息を吐いて安心したように眠りにつく。
ほんの数分程度の眠り。
起きればそのまま寄り掛かったままでいる時もあればすぐに離れる時もある。その時の違いは今一分からないが、たまに頭を擦り寄せて来る時は嫌な夢を見たときだ。そう言う時はさらに抱き寄せて何度も頭を撫でてやる。何もかもを吐き出すように長い息を太宰は吐き出す。
起きた後どうするかもまちまちだ。夕食や昼食を食べていくときもあればそのまま帰るときもある。夜泊まって朝に帰ることもあった。時にはぽつぽつと昔の話をすることもある。マフィア時代にどんなことをしたのか。時にはマフィアに入る前の事もぽつぽつと話して、話したことを後悔するような苦しそうな顔を何時もする。そんな時は正面から抱き締めてその細い背を撫でた。腕の中で僅かに震える肩は少しして力を抜く。その後は中々離れることがなく時には一日中くっついてるときもあった。
ぱちりと太宰が目を覚ます。ぼんやりとした瞳が私を見上げた。見つめ返すと肩に凭れたまま太宰が私の頬に触れた。今までになかった動きである。
「今日皆とご飯を食べに行ったんですよね。面倒だったんですが敦君たちに誘われて……」
太宰が話すのは探偵社での話であった。前は何度か話していたがここしばらくは太宰から探偵社の話を聞いたことがなく珍しく思いながら話の内容に耳を向けた。
「調査員全員で行ったんですが何故かそこでどんなときに幸せだと思うかなんて話になりましてね、谷崎君はナオミちゃんといるとき、与謝野先生は酒を飲んでる時、賢治君は農作物がちゃんと実って収穫できたとき、乱歩さんは駄菓子を食べてる時で、国木田君は理想通に物事が全て運んだとき、鏡花ちゃんは湯豆腐を食べてるとき、敦君は茶漬け……こうしてみると食べ物関連多いですね」
みんな安上がりだななんて感心したように太宰は言う。お前はと聞きたくなるのを堪え次の太宰の言葉を待った。
「そんな話してたら敦君が今みんなと居られるだけでも充分幸せなんですけどねって話し出したんですよ。こうしてみんなと居るだけでも十分胸が暖かくて幸せを感じるって……。
……私は聞かれて蟹を食べてるときが幸せだと答えたんです」
太宰が見上げてくるのに言ってほしそうな言葉を言った。嘘だなと。そうしたら太宰はこくりと頷く。はい嘘ですと僅かに眉を寄せながら、それでも安堵したような色を太宰は覗かせる。
「幸せなんてものがどんなものか分かってなかったんですよね。だから適当にみんなに合わせて言ったんですけど、敦君の言葉を聞いて少し思うことがあったんです。幸せな時って胸が暖かくなるものなのかなって。それでそれとなくみんなに聞いてみたのです。充足感があるだろとか、満ち足りた感じだとか言うのはよく分からなかったのですが、敦君や鏡花ちゃん、賢治達が言った何だか暖かくてふわふわしたような気持ちと言うのは何とか分かったと言うか、そう言えばそんな風なものを感じたことがあったなと思ったんですよね
今もなんですけど」
きょとりと目が瞬いてしまった。間抜けな顔をして見つめてしまうのに太宰はぼんやりとした顔をしながら肩に寄りかかり自分の手を見つめていて気付かれてしまう事はなかった。何度か手を開いたり閉じたりしながらその手が恐る恐る私に触れる。
「社長って暖かいですよね」
温もりを確かめるようにぺったりと触れてそんなことを言う太宰は瞼を一度閉じる。それから開いてすり寄ってきた。
「だから何ですかね? 貴方と共に眠ると朝起きたとき何だかぽかぽかしてる気がするんですよね。血流が何時もより良くなってるからふわふわしたような気になるんですかね。何だか宙に浮いているような変な感覚で……嫌ではないんですけどね、寧ろ、心地よい。でも気になるんです。こうやっているだけでも感じるのですが、これは単純に貴方が暖かいからそう感じてしまうのか、それとも本当に私が幸せを感じているからなのか」
どっちなんでしょうか?
ぽつりと落とされた言葉。迷うようにさ迷った瞳。離れた手がぽとりと下に落ちる。胸にふんわりとしたものが点った。ふわふわぽかぽかするのに小さく笑みが浮かんで太宰を抱き締める。どっちだと思いますか。太宰が聞いてくるのに首を振った。
「太宰。それはお前が答えを見つけろ」
その日から太宰は前よりも頻繁に家に来るようになった。答えを知りたいからと来る太宰はでも自分から傍に寄ってくることはなかった。私から抱き寄せない限りは後数歩の距離を保つ。
今日も太宰は家にやって来た。休みであった今日は何時もより早く昼過ぎにはやって来て縁側で涼んでいた私の膝の上に頭を乗せて眠る。最近太宰は少しずつ眠る時間が増えている。夜は確実に前より眠れているはずなのだが、それでも足りないと言うように私の傍でさらに眠る。数分だったのが十分数十分。今では大体四十分ぐらい眠るようになった。
原因は恐らくその頭脳。乱歩がまだ家にいた頃、良く昼寝をしている彼を見た。通常よりもずっと良く回る頭脳を持つ彼らはその分疲れが貯まるのだろう。今でも乱歩は事務所で時たま眠っている。太宰もソファに横になったりして休んではいるようだが、実際に眠ることはできず、今まで相当な疲れを溜め込んでいたのはではないだろうか。その疲れが取れるのなら私の肩でも膝でも幾らでも貸してやるつもりだった。
穏やかに眠る蓬髪を撫でる。いつも私の前だと何処か疲れたような能面じみた顔をしている太宰だが、眠っているときは穏やかな顔をする。その顔を見るのが最近の楽しみだった。起こさぬよう慎重になってその頬に触れる。少しひんやりとしたほほを片手で包み込んで温もりが移るようにと思った。
静かな時間。それを唐突に破ったのは一匹の猫だった。にゃーんと聞こえた声。私の足元、太宰のすぐ傍にとんと立つ。突然のことに固まり、それから慌てて猫に手を伸ばした。太宰を起こさないように追い払おうとするのだが、猫は伸ばした手をすり抜けてより太宰の近くに移動してしまう。たしたしと足を叩いてくる動きはまるでここは自分の場所だと主張しているようだった。良く家に来るので撫でさせて貰っている猫。確かに膝に乗せたことも何度かあった。だが今はと思ったところでぴくりと膝の上の太宰が身動ぎをした。固まってしまうのに太宰がうっすらと目を開き自分の顔の前にいる猫を見つめる。
にゃぁ。
たしたしと猫が叩く。太宰の手がそんな猫の背を撫でた。寝起きでぼんやりとした顔で口許が歪む
「君もここで寝たいのかい? 暖かいもんね。でも、だーーめ。今はまだ私の番だから」
ふふと柔らかに空気が震えた。口許は小刻みに震えて奇妙に歪む。泣いてるようにも見えるそれはそれでも笑みだった。
衝撃が走った。見開いた目で太宰を見つめ続けてしまう。猫が背を向けて去っていく。ことりと手が落ちてすぅすぅと穏やかな寝息がする。きっと起きたとき太宰はさっきのことなど覚えていないだろう。それでも………。ああ、それでも……。
「お前はそんな風に笑うのだな。……ぃい」
柔らかな蓬髪を撫でる。太宰が見せたの初めてみる笑みだった。いつもの貼り付けられたものとは違う。笑うのが下手な子供のような、太宰の心から溢れた笑み。とても下手くそで私だってもっとうまく笑えると思うほどのものだったがそれでもまたみたいと思う。
また笑ってくれるといい。そしていつか貼り付けなくとも笑えるようになればいい。
いつもの作られた笑みよりもさっきの笑みの方がずっと素敵だったから。
数十分後目覚めた太宰が福沢を見上げて不思議そうに首をかしげた。
「何か良いことあったんですが? 嬉しそう」
○
目が大きく見開いてしまったのではないかと思う。ぱちりと瞬きをした目の前で社長がくつくつと笑っていた。
「どうだ。面白いだろ」
滅多にみないような悪戯めいた笑みで問い掛けられるのにこくりと頷く。社長が嬉しそうに笑うのに何だか不思議な気持ちになる。目の前にあるものにもう一度手を伸ばした。もちりとした弾力、顎の裏にねっとりと絡み付くような感覚、そしてすっと口の中で溶けていく。
たまにはおやつでもどうだ。そう云われて差し出されたぷにぷにとした透明な和菓子。栄養をとる以外の食事は出来ればしたくないのだが、是非と差し出されるのに押しきられてしまった。そして一口だけのつもりで食べたそれは今まで食べたことのない食感をしていて。なんと言うのだろうか。もう一個ぐらい食べてもいいような気がした。
「気に入ったか」
問い掛けられるのに今度は首をかしげた。他のものよりはまだ食べてもいいと思えるようなあれだったけれど、これを気に入ったと云うのだろうか。
「お前はこう云ったものの方が好きかと思ったがまだ分からないか」
社長が云うのにそうなのだろうかと首を傾けながら、何となく残っていたもう一個に手を伸ばした。社長が柔らかく目元を細めて私をみていた。
最近はほぼ毎日のように社長の家にお邪魔していた。社長の家で眠り社長の家で起きる。朝も夜も社長の家で食べて、昼もたまに社長が作ってくれる。睡眠不足にも栄養不足にも暫く悩まされていなかった。
だからだろうか?
「何か最近太宰さん健康的と言うか生き生きしてますよね」
敦君が突然そんなことを云ってきたのは。自分では理解できなくて首をかしげたのだが、周りにいたみんなが何故か賛同する声をあげた。
「あ、それ、僕も思いました。何だか楽しそうですよね」
「きっと良いことあったんですね」
「確かにね調子良さそうだよね。あんた」
「事務員の間でも最近話題ですよ。もしかして恋人でもできたんじゃないかって」
体が軽くなったような気がするのは確かなのだけれど、みんなが言っているのはそれだけではないように思えて不思議な思いになる。
「別にそう変わらないと思うけど、と云うか恋人ってどうしてそんな風に思うんだい」
「え? だって何だか幸せそうじゃないですか。仕事終わりの時とか最近嬉しそうにして帰りますし」
えっと声に出しそうなってしまった。作った表情も全部消して固まってしまいそうに。何とかそれを堪えそうかなと云えばそうですよと返ってくる声。ひくひくと頬が震えた。話題を変えようと事務所のなかを探す。時計が目についた。時計は丁度三時の時刻を指していて……。
「あ、みんな休憩時間だよ。今日は何かおやつがあるんじゃなかったかい」
声をかければみんなぱぁーと目を輝かせた。今日は社長が休憩時にでも食べろとおやつを渡していたはずだ。未成年も多いのでよくあるその時間をみんな楽しみにしているのだ。
「そういや社長が持ってきたものだから今日は期待できるよ。早速取ってこようか」
「ナオミお茶淹れてきますわね。あ、日本茶がいいですかね」
「あーー、社長だからね。そっちがいいかもね」
休憩するのに移動するみんな。興味の対象が私から変わってホッと息を吐いた。それと同時に考え込みそうになるのは太宰さんも早くと云う声によって掻き消された。良かったと思った。
「うわぁーー、美味しそうーー」
「凄いですわーー」
「美味しそうです!」
キラキラとした声が聞こえる。私は驚きそうになったのを抑えにこにこ笑って美味しそうだねと云った。社長が今日持ってきていたお菓子はこないだのお菓子であった。ぷるぷると震えたそれを見つめてみんながそれぞれ歓声をあげる。明るい笑顔で食べましょうといい手を伸ばすのを見た。ついていた竹串でぷにぷにと刺す。ふるふると震えるそれに楽しそうにしている。
「んーーー、凄いです。これ!! 美味しいーー。甘いですね」
いつも通り美味しそうに敦君が食べた。賢治君も谷崎君、ナオミちゃんも美味しそうに食べている。与謝野先生は酒のつまみにならないね等云っているがそれでも実に美味しそうに食べていた。食べないんですかと問い掛けられるのに私も一つ口にいれる。もちりとした弾力。噛んだ瞬間上顎に絡み付きそしてすっと溶けていく。噛まないですむのは良いななんて思っていれば美味しいですよねと聞かれた。
「ん、そうだね。甘くていいね」
口にしながら私はふと固まった。ほぼ何も考えずに口にしていて口にした後に驚いた。口許を抑えそうになった。自分が何を云ったのか理解するのに少し時間がかかる。
「どうしたんだい。太宰」
「何でもないですよ、美味しいですね」
また口許が震えた。
訝しげな目が見つめてくるのを感じながらもう一口含んだ。何度も咀嚼してやっと飲み込んだ。何だか疲れてしまった気がして箸を置く。さらに訝しげな目が強くなった。
「どうしたんだ」
社長が問いかけてくるのに何と云っていいのか分からず首をかしげた。見つめれば真っ直ぐに見つめ返してくる。今日は何だか気分が優れなくて何時もより遅く来た。社長は既に食べ終え風呂にまで入った後だった。それでも嫌な顔一つせず私を迎え入れ、腕の中に抱き込まれる。最近は肩や膝などが多くて全身を包まれるように抱き締められるのは久し振りのこと。ほんの少し目を閉じた後社長は何か食べるかと聞いてくる。用意してくれていたのだろう夕食が少しだけ並べられた。
それを食べていたのだけど、何時もよりも何だか食べれる気がしなかった。
「今日みんなとおやつを食べたんです。社長が持ってきてくれたの。あれこないだ食べた奴ですよ」
ああ。と社長は頷く。嫌だったかと云われるのには首を振る。
「嫌ではなかったんです。ただ食べてたら何だか前になかった感触がした気がして……、なんと言うか甘かった……気がしたんですよね。
他のもそんな風に感じるのだろうかと思ったのですがやはり何もなくて……」
ぎょっとした目が私を見ていた。何だか少し輝いた気がした目に慌てて言葉を付け足す。勘違いだったようですと最後に云えば、何故か社長はふわりと笑った。
「それは、まだ分からん」
「え?」
「そんな急に味が分かるようになる訳じゃない。だから勘違いなどと思わずその甘いと思った感覚を忘れないようにすることが大切なんだ。明日また食べてみるか。買ってこよう」
「いいん、ですか」
社長はとても嬉しそうに笑う。良いに決まっているだろうと。普段表情の変化が乏しいだけにその笑みは胸にくるものがあった。私が人間になったことを私以上に喜んでいるようで何だかとても……。
社長の手が机を越えて私の方に伸びた。ゆっくりと頭を撫でていく手。暖かな感触がするのにむずむずとした感覚が走る。何だかぼぅと熱くなるような感じ。ふわふわとして来るのに口許が変に歪んだ。社長の目が優しく私をみる。
ああ、と息が漏れた。
今日一日考え続けたみんなの言葉が私の中に回る。やはりそうだ。やはりみんなが正しかったのだ。
私は今、幸せを感じてる。
とても、とても幸せである。
社長
音を転がせば何だと柔らかな声が聞こえてくる。
「答えだせました。でも、どうしましょう。何だかとても…………」
なんと云って良いのか分からず言葉を探す。自分にとっては幸せなんかよりもずっと馴染みのある感情ではあるのだが、それがどうしてくるのかが分からない。
「苦しいか」
迷うのに社長が云い当てた。それから私の頭を撫でる手を強くする。
「それはな太宰きっと寂しいからだ」
きょとりと目を瞬かせるのに柔らかな銀灰が見つめてきて、反対の手もまた私の頭に触れた。両手で撫でながら社長が今まで一番嬉しそうに微笑んだ。
「これからもお前の好きな時においで。私はずっとお前を待ってる」
いいんですか。震える声で問い掛けたのに当然だと強くて優しい声が答えてくれた。